② 主は神に祈るものにたいしては最低の保証をしておられる。
そういう意味で主がこの祈りをするように勧められたとき、主は将来の不安を覚えていたので祈るように言われたのでは全くない。逆である。まったく生きることの不安を覚えることのない思いで祈ることを勧められたのである。すなわち40年間も日々イスラエル人にマナを降らせて飢えさせたことのない神を覚えていればこそこの祈りをするように勧められたのである。そういう意味では不安な心で祈る祈りではなく安心して祈るべき祈りである。
そういう意味では嘆願というニュアンスではなく感謝というべき祈りである。
② しかし、最後に付け加えておかなければならないことは「神に祈り求めていれば働かなくてよいか。」ということである。もちろん否である。
パウロが「自分の手で働いて食物を得なさい。」とか「働きたくない者は食うな。」とか教えているとおりである。
しかし、あなたはいうかもしれない。「それは矛盾だ。」と。しかし、聖書は言います。「神に糧を求めることと、自分の手で働いて糧を得ることは矛盾しない」と。
なぜなら
(1) 良い性格の故の自己義認と罪の自覚
a 私はあまり若い人々の仲間に加わらなかった。どこかに遊びに行ってくると必ず初めのような良心をもって帰ることが出来なかった。
自分の義を損なうことをおそれた。そのような時には決まって新しい罪悪感が増し加わって恵みの座に近づく恐れを感じ、また、時折自分を喜ばせていた良
い性格が傷つけられるように思った。ああ、しかし私の良い性格とよぶものはその全てが自己の義であり、神の栄光を求める願いに基づくものではなかった
のだ。
b このようにして、私は自らの義を基礎として進んでいったのである。ある日の朝、突然神は私が滅亡の危険と神の御怒りを自覚することを良しとされた私
はおどろきのあまり、そこに立ちすくんだ。過去の良い性格など、全く消え失せてしまった。罪と邪悪の現実を見せつけられた。ので、わたしは1日中非常な煩闘のうちにすごし、まもなく神の御怒りが頭上にくだるのではないかとさえ思った。
a 私は自らの義に価値があるなどという考えは全く捨て、私の為す最善のものでも永遠の刑罰のほか何の救いも与えられないとしばしば神の前に言い表していた。しかし、依然として、自らの宗教的義務によって自分を神に推薦しようとする思いを潜在意識の中に抱いていた。祈って心がある程度までとかされるように思われた時、神が憐れみの御心
を動かしてくださるだろうと願っていたのである。 この時私は自らの祈りの中に何か喜なるものがあるように感じた。私の心の中では郵政を占めている思想と希望の土台が幻想的な善にあったとはいえ、罪を嘆いて、ある程度までキリストの内にある神の憐れみに身をゆだねることが出来たからである。・・・宗教的義務を広げることによって時折、自分
は天国に至る良い段階を○したことが出来たらと思い込んだ。神が自分と同じように動かされ、このような熱心な叫びを聞いて下さるように考え自らのわざによって自らを慰めていったのである。
b 同じく20歳の頃、一日断食と祈祷に費して、罪の邪悪を見る目が開かれ、イエスキリストによっていのちの道がしめされるよう神に向かって叫んだ。神はその日私の心の深層をかなりよく示してくださった。しかし、私は自らのわざになんの善とならないことを知りつつ、なおそれにより頼んでいたのである。―神は私が無力であることを示すための手段
として、この努力をお用いになったのである。
・・・今でもよく覚えているがある夜、一人で外を歩いている時、恐ろしい罪が目の前にありありと示された。私は足元の台地が真っ二つに裂けて自分の墓となり家に着く前に地獄に落ちてしまうのではないかと思ったほどである。このような恐れを人に見られたくないために、無理やり寝床についたが、朝までに地獄に落ちていなかったら不思議だというように思っていたので少しも寝れなかった。
(3) 神の義認の道への反抗と混乱(悟れない苦しみ)
a こうして味わった多くの失望は私が全能者と論争し、人間を取り扱われる全能者の方法に欠陥があることを見出そうとするもっとも恐ろしい所まで導いた。アダムの罪をその子孫に及ぼすなどということは大変な誤りであると思い、私の邪悪な心はしばしばイエスキリストによる以外の道を望んだ。
こうして私の思想は混乱し、他の方法によって神の怒りを逃れようと考え、無神論的な思想による変な考えを持ち、私に対する神の計画をむなしくし、神の御もとから逃れて隠れることとを画策するようになった。
そして、こうした意図が私の解放のために何の益にもならないことがわかると、神が存在されていることを恐み、あるいは神を支配するほかの存在があることを望むような状態にまで落ちて行った。これはしばしば気が付かないうちに起こる心中の傾向であった。自分の心が神に対する敵意にあふれていると考えることは苦痛であった。また神の怒りが不意に頭上に落ちかかりはしないかと慄くのであった。
b
① 神の与えて下さった律法の厳正なこと。最大の苦痛によっても、律法の要求に応じることは不可能であることを思い出した。私はたびたび決心を新しくしたが幾度となくそれを破ってしまった。
② ただ信仰のみが救いを受ける条件である事、神はそれ以外の条件に応じられることはなく、私の心からの切実な祈りや努力に対して命と救いを約束なされることはない。ということであった。「信じないものは罪に定められます。」(マルコ16:16)という見言葉は一切の希望を完全に砕いてしまったのである。私はずいぶん真面目に義務を遂行し、長い間きわめて宗教的な生活を送り、神の恵みを受けた人々よりも多くの事をしていた。そのわざが全く価値のない者のようにみなされることは耐えがたい事であった。
③ 信仰とは何か。信じるということはどんなことかキリストの御許に行くとはどのようなことかを知ることができないこと。疲れた人、重荷を負っている人に対するキリストの招きの言葉を読んだがその人たちが℃の様にしてキリストの御もとにいくのか。その方法を知ることが出来ない。それがわかりさえするならそのためにどんな難しい行為が必要であっても、喜んで御もとに行くんだがと考えるのであった。
a これらの間じゅう神の御霊は力強くし、私に働きかけておられた。私は私の心の中ですべての自信、何とかして自分を助けようとする全ての希望を放棄するように迫られた。自分は失われた状態にあるということが、時には非常にハッキリと自覚されて、まるで。「自分を解き放つことは永遠に不可能だ。」と宣言されてたかのように感じた。しかし、私は、自分が罪と咎との中に死んでいるという重要な心理をあえて知ろうともしなかったのである。
b ところがある朝、いつものように、さびしい所を歩いていた。その時、突然私は自分の解放と救いを成し遂げようとする、あるいは獲得しようとする一切の意図や工夫が全くむなしいものであることを知らされた。自分は全く失われている。と悟るところまで達したのである。いまや、私は永遠に至るまでになし得るすべての弁解をしつくしてしまったこと、自分を頼むすべての弁解がむなしいものであることを知った。
c 心の嵐は静まり、かつての苦痛は和らげられた。それまでは、多くのわざを積めば積むほど、神は私に仮があると考えていた。あるいは少なくとも、神はいっそう私を捨てるに忍びないと思われるであろうと考えていた。最もそれと同時に自分の業には何の功績もない事を(口で)告白はしていたのだが、ところで今度は祈れば祈るほど、また何かをすればするほど、かえって憐れみを求める。という点で神に仮があることを知ったのである。私の祈りは神が恵を下さるための条件を少しも果たさない。事をしったのである。
それまで私は、神の御前での各種の務め、断食、祈りを積み重ねてきた。しかし、神のためには何もしなかったのであるから、神に何かを請求する資格はないこと、むしろ、偽善と神を侮ったことのゆえにほろびるべきものであることを知った。ああ、私の為すわざは、今までの様相とはなんと異なったものにみえてみたことか。
Ⅱ 回心
a 21歳の夏、彼は神の啓示を受け、神の豊かな臨在感の内に神の栄光を見せられる。この体験は素晴らしい天的で神的、想像以上に卓越した比べうるもののないほど、かけ離れたものであった。と言う様な事をいっている。彼の魂は言い尽くせない喜びに包まれ、その方が永遠に遠くにわたってわたしの神となられることを考えると満足した。内なる喜びと編案は夕暮れまで続いた。
b 神の優れていることmあいすべきこと、偉大なること、その他の完全性によって、彼の魂は全く補えられ、大いなる喜びに満たされた。そのあまり神の中に没入してしまうのではないかとさえ思われるほどであった。
彼は心から神を崇め、神を喜ぶことが出来た。彼は新しい世界にいることを感じた。周りの全てのものが今までとは違って見えた。彼の新生であった。
c その時、救いの道が目の前に示された。なぜ今まで自己流の考え方を振り捨ててこの祝福に満ちた幸いな救われた道に従わなかったのかと不思議でならなかった。・・・なぜ全世界のものがただキリストの義による救いの道を見出し、それに応じることをしないのか不思議に思うくらい明確に示されたのである。その時、味わった素晴らしい感覚は、数日続いた。彼は伏し、また起きてはただただ甘美な思いの内に神を喜ぶのであった。
d それ以来彼は色々なことがあったが、次のような言葉を語るほどに霊的に生長していった。
① 霊的状態の暗黒よりも、神の臨在から締め出されることのほうが、私にいっそう苦痛であった。
② しかし、病気になる1日か2日前の夜、非常に静かなるところを一人歩きながら神を思い、祈りにふけっていると、上から甘美な新鮮な御霊の注ぎを受け、魂は死の恐怖をはるかに超えたところまで引き上げられた。実際、死を恐れるというより、死を渇望した。そのひと時、世の与えることの出来る一切の快楽や喜びに勝るさわやかさを与えられたのである。
③ 激しい勉学のために霊的なことをに携わる時間はわずかしかなく、そのため魂はしばしば神と共に一人いる時間の少ない事を嘆き悲しんだ。