【重要】teacup. byGMOのサービス終了について


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  • ちよくんスレ

  • 投稿者:管理人ザアカイ
 
ちよくん、どうぞ好きなように使って下さって結構です。

 <思いやりのあるコミュニティ宣言>
 teacup.掲示板は、皆様の権利を守りながら、思いやり、温かみのあるコミュニティづくりを応援します。
 いつもご協力いただきありがとうございます。

投稿者
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*内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
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sage

  • [84]
  • 希望はあるが望まない未来が来ようとしている

  • 投稿者:ノアくん
  • 投稿日:2020年 7月31日(金)01時06分16秒
  • 返信
 
歴史は形を変えてまた繰り返すと言うが私が想定していた望まないみらいがやってくるようだ。

発売前なのでアマゾンより概要を読んでいただきたい。副島隆彦氏の最新刊のタイトルである。

日本は戦争に連れてゆかれる 狂人日記

この表紙を読んでただただガックシ俺の人生はめちゃくちゃにされるのか。そんな気分なりました。

でもイエス様が一番!イエス様がいるから立ち向かえる。いよいよ信仰が試される時代なる。
早く来てくださいイエス様!アーメン

  • [83]
  • ハイパーインフレ

  • 投稿者:ノアくん
  • 投稿日:2020年 5月20日(水)02時04分41秒
  • 返信
 
ハイパーインフレになる時期について個人的な理論値は2022の終わり?~2024年4月?と打算していましたがここに来てカレイドスコープより具体的な数字が出てきました。2022年4月以降は非常に非常に注意が必要です。

あらゆる物資が高騰し不足することが懸念されます。嵐が来る前にできる限りの準備を始めることを要請します。また主にある兄弟姉妹共に困難を手を携えて乗り越えましょう!

4つの馬についての考察。登場の仕方からして反キリストが登場するまでの順番を描いているように感じてやみません。聖書の封印の順番通りにでてくるのが正しいのだろうけどどうも現実を見ると付に落ちないのです。


  • [82]
  • 私たちがいる場所

  • 投稿者:ノアくん
  • 投稿日:2020年 4月18日(土)00時43分59秒
  • 返信
 
民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。
8 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。

このみことばは起こる経緯を指す。また私たちがいる場所は一段階前の飢饉と経済の部分の実験だろう。

民は民にの部分はおそらくアメリカ内線もしくは分裂を示唆していると私の中て強く感じずにはいられない。 アメリカの分裂をきっかけに戦争が起こり、その最中に飢饉が起こる。そして最後に地震が起きる。

この地震とはロシアのイスラエルに攻め混む時に起きる地震ではないだろうか?と心に結び付く感触を感じました。

仮に時期を仮定するなら最短で10年~15年程先とわたしは見ています。それはなぜか2024位に金融崩壊が起こり新しい金融システムが導入されます。それと同時にアメリカの覇権は完全に終わりドルは失墜します。であるならば時代背景を考えるならば「民は民に」はアメリカをとても象徴的に扱っている言葉と言えるのではないでしょうか?

そのなかでクリスチャンたちは憎まれ、迫害を受ける時代として過ごすのだと思います。

そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。
10 そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。

御言葉がリンクするかはちょっと自信はないけど10~15年と言う数字は私の中では予感をとても強く感じる数字なのです。

  • [81]
  • カザフスタン世界銀行

  • 投稿者:ノアくん
  • 投稿日:2020年 4月13日(月)01時15分45秒
  • 返信
 
https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/07/a2f8edc82001a499.html

  • [80]
  • 欧州連合崩壊について

  • 投稿者:のあくん
  • 投稿日:2020年 4月 9日(木)00時58分22秒
  • 返信
 
https://kakuyomu.jp/works/1177354054884392042/episodes/1177354054884392097


  • [79]
  • (無題)

  • 投稿者:ノアくん
  • 投稿日:2020年 4月 2日(木)01時07分24秒
  • 返信
 
ノアの日のように。ノアが人々は黙って死ねばいいと思っていたとは思えないようにすべきことしましょう。

  • [78]
  • イエスを信じたものが救われる。

  • 投稿者:ノアくん
  • 投稿日:2020年 4月 2日(木)00時53分55秒
  • 返信
 
間違っていた。

~かもしれない。はある程度正しく基本正しくない。

陰謀論を語るうえで必要なのは裏付け、関連の知識、点と点を結ぶ知識。99%当たっていたとしても1%はずれたならば陰謀論
80%当たっていても陰謀論。

でも港は必ず聖書。それ以外の事は肉付け。始発駅と終点がわかればどのような工程を踏むか自然と理解が深まるもの

解らないことは触れない。言わないように努める。確信がないことは人には教えない。守れてない時あるけど汗




if,,,
羽田発着の滑空路の高度設定が危険で事故につながりやすい。
地震が起きて羽田被災する。
銀座に燃料切れなどの飛行機が突入。
被災する。
津波で東京お陀仏・・・


仮説が正しくて危険だと騒いだとしても私自身がそうだからそれは現時点では受け入れられない。

騒いでも愛する人は救われない。周りの人を御国に連れていくことはできない。だから歯がゆいのだ。
何とか陰謀論をかぎ口にみことばを伝えたいと願う私が痛感しているし、それが普通にできるようなレベルにある〇〇〇イ氏・・・うらやましー

正しい事言う者が救われるのではくイエスを信じたものが救われる。正しそうなこという事はユーチューバ―でもできる。私でもできる。頭のいい人がやればいい。

もし仮説が本当ならばリアルで人々に伝えていなければいけない位の事だ。ここだけで叫んでいるのはおかしなことだ。

私はすでに金の事と金融封鎖の予言は誰にでもいえる。その代り変人だと思われているのは容易に想像がつく。正しいとは言えないけど衣を破いてでも触れていたいんだ!


そしてできるならば福音を伝えたい。一心に!!!!!!!!!

だからここで失敗するのはしょうがないことだけど本当ならやるべきことはここで必要以上に叫ぶ事ではない。

ということでつまらない。文脈おかしな文が出来上がったわけです。
中々福音伝えれませんが見ている皆様いたら
我々の人生の目的を果たせるように祈りつつ進みましょう!

  • [77]
  • 余計なお世話・・・

  • 投稿者:ノアくん
  • 投稿日:2020年 3月28日(土)02時31分56秒
  • 返信
 
金金金ギンギン銀と好きになってしまった貴金属見ているとワクワクします。この世の支配者が価値があると宣言してたから価値があるだけで売買ができなくなれば本当にただの石ころ(でも夢のある石ころ)

でもいろんなデザインがあってnetとかで愛でて「いいなー」って思います。イエス様の時代のコインとかそれなりの値段がするのですが飽きないのです。歴史を感じて楽しくなってしまいます。

そんな純金コインですが副島先生によれば31.1グラム100万円になると断言されました。田中貴金属では銀の販売をやめたようです。プラチナコインに続き銀もかえなくなると言うことは徐々に金も買えなくなるときが近づいてきたのかもしれません。


信仰と関係はありませんが淡い楽しみを私の知らないところで味わってください。


  • [76]
  • 追加

  • 投稿者:ノアくん
  • 投稿日:2020年 3月28日(土)02時08分46秒
  • 返信
 
https://youtu.be/5YaytxP0iWA

  • [75]
  • (無題)

  • 投稿者:ノアくん
  • 投稿日:2020年 3月28日(土)02時06分10秒
  • 返信
 
今までの経緯から疑問だった点がカバーできている動画(分断、経済、パニック、彼らの社会実験)

https://youtu.be/4tkBCnKZCq0

  • [74]
  • 世界的な原油安

  • 投稿者:ノアくん
  • 投稿日:2020年 3月28日(土)02時02分37秒
  • 返信
 
経済危機の裏で原油安が起きている。

アメリカ、ロシア、サウジ
アメリカ30ドル以下になるとシェール企業が潰れる危機になる。トランプ経済対策
ロシア サウジと喧嘩して主導権争いしている。しかし、共謀の疑いあり

サウジ アメリカにうんざりしている。この危機を最大限に使ってアメリカに仕返しをしたい。そしてこっそりロシアに着いていると思われる。

原油安になると戦争の噂が聞こえてくるようです。案外ここがネックになるのかもしれない。これについては全く確信がないから戯言くらいで考える方がいい。



  • [73]
  • 脳内のイメージ

  • 投稿者:ノアくん
  • 投稿日:2020年 3月26日(木)22時07分36秒
  • 返信
 
大きな物差しがある。

人では計りきれる部分は一部である。

さらに一個人が体験できる時代も1部である。

その中で原発事故、今回のパンデミック=経済の破壊。(世界大恐慌への門の前)
2025前後から本格化する大恐慌。(1929年)

その後10年くらい後に二次世界大戦が起きた。(1939年)

計りきれない神の計画ではあるが私は聖書の記述が本当なのか実体験として経験しながら城壁の上で今日も見張る。


その時まで生かしてくれるかは神の計画次第だが畏れつつ待っている。楽しみだ。

もし生きていたら54歳・・・もう少しで爺だ!アリーリタイヤしてしたいように生きてるかな?

私だけなのだろうか?勝手ながら世界大戦を想定してるのは・・・


  • [72]
  • 独り言

  • 投稿者:ノアくん
  • 投稿日:2020年 3月23日(月)01時33分57秒
  • 返信
 
間違いは付き物。
クリスチャンの聖書自己解釈と関連付けやイメージ連想は中2病でエゴなオナニプレイ。でもよくあること
御言葉はそのままの状態を解釈を!

人の口よるもの(後で気がつく)
肚の中のイメージと御言葉に聞いて練る
すると
聖霊が御言葉を語りかける。
あとは衣をかじりついて放さない根性や!



  • [71]
  • うーん(?_?)

  • 投稿者:ノアくん
  • 投稿日:2020年 3月21日(土)02時23分28秒
  • 返信
 
群馬のゆみこって言うペンネーム・・・なんだろうどっかで見かけたような。
ここの掲示板にそんなひとがいたようないなかったような?
分子整合栄養学は本物だと思う。発達障害に有効です。
小さな子供がいらっしゃる方で興味がある方は本を買ってみるといいですよ。
マリアクリニック(柿谷正期牧師が関わっているようです)
https://mariyaclinic.com/contents/info/info_ayumi.htm


https://www.amazon.jp/dp/4904198034?ref=ppx_pop_mob_ap_share



  • [70]
  • 城壁

  • 投稿者:ノアくん
  • 投稿日:2020年 3月18日(水)12時29分24秒
  • 返信
 
エレミヤ
その叫びは聞かれず返って人から蔑まされ疎まれた。


未来の苦難・艱難を心に覚える時、イスラエルのために祈りましょう。

  • [69]
  • (無題)

  • 投稿者:ノアくん
  • 投稿日:2020年 3月12日(木)00時42分40秒
  • 返信
 
人々の分断も含む。国は国はにたいして民族は民族にたいして

  • [68]
  • 悲しき定め

  • 投稿者:ノアくん
  • 投稿日:2020年 3月12日(木)00時34分52秒
  • 返信
 
昨日投稿した内容が繁栄されていない・・・涙

内容的に纏まってなかったと思うから神様がきっと消したんだ・・・

内容は一言で言うならば贖罪の日贖罪の年ヨムキプル!
ヨムキプルに詳しい人補足宜しくお願いします。過去の掲示板での内容をうすらおぼえでイメージしたので・・・

株価下落とは贖罪の年、贖罪の日に向かって低迷していくのではないか?
中央銀行のコロナウィルスの名の元による言い訳。もとい出口戦略ではないのだろうか?

円高によるアメリカ破綻時の国債債務圧縮。分厚い障壁化

マタイ18章21節むかしカレイドスコープが取り上げた理由の箇所。個人的には28節位まで含むのではとおもうとした。ヨムキプルに関係するのではないか?

  • [67]
  • 塩の柱

  • 投稿者:ノアくん
  • 投稿日:2020年 3月10日(火)01時27分13秒
  • 返信
 
ソドムとゴモラは滅ぼされ、ロトの妻は塩の柱になった。
ここに教訓がある。
振り返ってはいけない。繁栄、名誉、快楽の町。
それらはもう滅ぼされようとしているのだから

これから日本経済がもう持たない、もうだめだと言うくらいまで徹底的に経済を破壊されるだろうと予感はしていたがトゥルーシーカーさんのサイトを覗いて改めて決意した。

こう言う金融崩壊を想定していなかったのが本当のところだ。滅びの四騎士が並走して闘技場に入ってくるのが目に浮かぶようだ。走り始めて青ざめた馬が先頭を切りそれに並走するようにした黒い馬が並び、赤い馬が続き白い馬が差し狙いで1着を狙っている

最終コーナーにはいって青ざめた馬と黒い馬は走るので精一杯。赤い馬は中盤戦から徐々に追い上げてトップとたりそうだ!
しかし、足が及ばない白い馬が三騎抜いて抜け出た2馬身差で圧倒的だ!
ゴール!
おめでとう。騎手反キリスト。


不謹慎立ったと思う。
が・・・おそらく今の現状はグローバリスト?我々に対するエピローグと言うことなんだと思います。エピローグはなんだかんだ言って2年くらいだらだら続くのかもしれない。

本当に嫌な世の中になるのだけどそれすら楽しみにすることが出来るって感謝。
あとは灯した火を消さない。絶やさない。

主イエスの祝福があなた方にありますように!アーメン

  • [66]
  • 円高をみておもう

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2018年 2月 7日(水)23時31分59秒
  • 返信
 
これからの展開が目に見えてくるように感じられる。日銀がヘリコプターマネーを投下する情景がうっすらと見えるようになった。

短期間はこのままだと推測するけれどオリンピックが近くなるほど円高がすすむように感じられる。

何もかも日本に責任を押し付けられ終わる気がする。

  • [65]
  • 『引き立たされる人生』

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2016年 8月 5日(金)21時40分25秒
  • 返信
 
        神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
        それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
        (コリントの信徒への手紙 Ⅰ 12章24~25節)

         あるカトリックの神父の人が「消去法の召命」という言葉を語っています。神父や牧師は、自分が神様から召命を受けた…つまり神様が特別に自分という人間にその道を与えた、そう信じ一生をその神様の召しに応えて生きようと決意する。それがいわゆる召命感というものですが、その召命にも「加算法」と「消去法」がある、とその神父さんは言います。その神父さんは、小さい頃から自分が他の人と同じように出来ない、能力の劣った人間であるという劣等感を抱いていて、そんな自分がまともに生きていく道があるのかと真剣に悩まれたというのです。加算法の召命は可能性のある多くの選択肢の中からその道を選ぶ、そのような生き方であるが、自分はまともに出来ることは何もなく、選択肢も何もない中、消去法的に神父になる道を選ばざるを得なかった、ということなのです。自分が「サラリーマンも商売も教師も、絶対無理だ。…一家の主として家庭を持ち妻子を養うなんて夢のまた夢」と暗い気持ちに陥っていた時、ふと聖書が目に留まり、「そうだ神父になればいいんだ」とその瞬間確信したそうです。「どう考えても無理でありおよそ向いていないがぼくが飢え死にせずに教会の仲間とともに生きる道は、信者に仕え、信者に支えられ、信者に食べさせてもらう」以外にはない、と。(「神に呼ばれてー召命から献身へ」教団出版局 より)。
         これが召命というのは、あまりにも消極的で現実逃避ではないか、とさえ思えますが、私も牧師になろうと思った動機がまさしくこの神父さんと同じ思いであったことを告白せざるを得ません。そしてその消去法の召命が、他に選択肢のない故に周囲の環境や条件がどう変わろうと、そこに留まるしかない唯一の道として残されている、だからやめたくてもやめられない道なのだ、とその神父さんも言っています。神様はそういう弱く劣った存在を、あえて強い優れた選択肢の多い人たちの中で「引き立たせ」この人も価値ある存在なのだと言って下さるのです。わたしがあなたを必要とする、と。 

  • [64]
  • (無題)

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2016年 7月 8日(金)20時44分55秒
  • 返信
 
「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」(イザヤ6:8)

「なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。」(イザヤ6:13)

  • [63]
  • イザヤ

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2016年 3月13日(日)22時52分30秒
  • 返信
 
「わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける。」 イザヤ書8章17節

  • [62]
  • 荒野に叫ぶ

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2016年 3月13日(日)22時39分6秒
  • 編集済
  • 返信
 
実利を説き、真実を説き、真理を伝えたい。

虚しい愚かな事か

人は自分の頭で考え、常識に捕らわれる。

盲人には見えず、愚か者は知識を探さない。

聞く者に知識がないのに 見出すことが出来ようか。

耳がない者に 叫ぶのは虚しい。

知識を求め、見い出しても愚かゆえに伝える知恵がない。

私はむなしさを覚えた。隣人が知識がないために盗まれる。隣人が知識がないために滅ぼされる。

伝える知恵がない為、空に叫ぶ。

私はもっと知識と知恵が欲しい。

イザヤはどう思うのだろう。

  • [61]
  • 2020年 東京オリンピック 開催しない 

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2016年 3月 7日(月)12時54分36秒
  • 返信
 
で検索してみた。

そしたらジョンタイターに関することが出てきた。

前にも名をはせた人物ではあるけれども、この人物が未来から来たという事はおそらく嘘だと私は仮定しています。

イルミナティ・フリーメーソンのイベント工程表と観がています。発表することによってあえてトンでも扱いさせてほんとだったと誘導するための公開と主観としてとらえています。

もし、その計画が本当だったならば東京オリンピックは開催されないことになります。

その理由は世界規模の戦争が起こることなのではと仮定。

それに合わせて小泉師の計算では携挙?再臨だったかな?それが2025年のあたりと計算しているので大まかな推測としては小泉師の予見は精度が高いと私は思うところです。

そこで引っかかる御言葉が1つあります。

わたしの民は知識がないために滅ぼされる。

この御言葉が引っかかります。

  • [60]
  • 過信と傲慢

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2016年 3月 7日(月)11時50分13秒
  • 返信
 
個人的な独り言

流れに沿ってルールを守る。
守らないことは過信、傲慢につながる。
徹底しない事、できないという事は自己判断、自己中心につながり、自分で飛ぶハードルを上げ、飛べない高さまで引き上げていく行為だ。それでも徹底しようとしないのは自分がどんな存在なのかを気が付いていない、傲慢な自己があることを知らないことが原因だ。その場で徹底すれば長い年月を苦い思いをしなくてもよいのに・・・


今日私は御前で悔い改めます。どんな失敗においても過信せず傲慢にならないようにするため、決められた手順と愛をもって労苦にあたります。

  • [59]
  • いまさらかよ?!

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2016年 3月 6日(日)00時33分41秒
  • 返信
 
今更オリンピックの聖火の設置場所を設計していないかったとかって普通に考えてないですよね?

あえてそれを問題にするマスコミは何かを隠したいのでしょうか?それとも隠れたメッセージを発しているのでしょうか?

意図的に隠したいがために問題に取り上げるとしたら甘利逮捕させないための情報操作??

なにか隠したメッセージを発しているならば2020年のオリンピックはありませんという事になるのではないでしょうか?
もしくは戦争後になりますというメッセージにもなりそうですよね?

あくまでも主観なのでソースもジャムもありません。歴史を上塗りするように物事を動かす人々がいる事からそんなメッセージにも見えなくはないかな?

  • [58]
  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2016年 3月 5日(土)22時01分51秒
  • 返信
 
順々と繋げる。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。

マタイの福音書 5:29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
マタイの福音書 5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。
マタイの福音書 10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
マタイの福音書 18:9 また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。


コリント1章
1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」
1:20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
1:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
1:24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。

1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
1:26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
1:27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
1:28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
1:29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
1:30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

@は実行かもっと明確に

  • [57]
  • 川の流れに沿うように

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2016年 3月 4日(金)22時22分26秒
  • 返信
 
順々と繋げる。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。

マタイの福音書 5:29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
マタイの福音書 5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。
マタイの福音書 10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
マタイの福音書 18:9 また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。


次にくる言葉は何??

  • [56]
  • キャッシュフリー

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2016年 3月 1日(火)00時49分2秒
  • 返信
 
キャッシュフリーの世界が目前に迫っている。

私たちがRFIDを体の中に注入しなければ私たちは食べることも買う事も出来なくなる。

多くの人が背教に走ると聖書に書かれています。

では私たちはどうすればいいのでしょうか?避けようのない事実を突き詰められた場合、自給自足ができる人はいいとして私を含む多くの人々は望まないのにもかかわらず受け入れなければならなくなります。

そうしないすべは情報発信されているにもかかわらずまとまった現実(力として行使)されて店は一つもないのではないのでしょうか?

少なくとも東京オリンピック以降はキャッシュレス社会に突入するようなのでRFIDを受け入れるか自給自足をする準備をするしかないようです。

速く!速く!主よ!来てください。

着たりませ!マラナタ!

  • [53]
  • メモ1金の海外での購入の仕方の一例

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2014年11月26日(水)02時11分8秒
  • 返信
 
著作権の関係上貼り付けれる量ではないので見たい人は飛んでください。http://1tamachan.blog31.fc2.com/blog-entry-6611.html

  • [52]
  • マタイ12:38-45 しるしと信仰(危険な空き家)

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2014年11月 7日(金)00時01分31秒
  • 編集済
  • 返信
 
邪悪な時代の人々は信じるだけの近教があってもなお信じようとせずしるしを求める。しかしいつまでもそれを続ける者の結果は悪霊に住まれる。

しるしを求める邪悪な時代

1 HSによれば十字架と復活のしるしだけで十分に信じられるので信じるようにうながす。
2 いつまでもしるしをもとめつづけて不信仰になることの恐ろしさを伝える。

クリスチャン中心


本論Ⅰ

イエスのしるしは 十字架と復活

1しるしを求めるのは不信仰である。
2しるしは原則として与えられない。
3イエスのしるしは十字架と復活のみ


本論Ⅱ

しるしがなくても信じられる。

1十字架と復活はパリサイ人にとってしるしとはならない。
2ヨナの説教
3ソロモンの知恵

本論Ⅲ

しるしを求めるものの結末

1悪霊が自分から出ていく
2空き家に多くの悪霊を連れて戻る
3初めよりもっと悪い結果になる。

結論

・・・・???



本論Ⅰ イエスのしるしは十字架と復活 V38-

先週の説教の時に学びましたけれどもイエス様はパリサイ人たちに対し「あなた方は聖霊に逆らい、冒讀しているので、永遠に許されない罪びとだ」と宣言なさいました。

すると、頑ななさしものパリサイ人達も「神に対して永遠に許されない罪を犯しているといわれて少しは心が動揺したのでしょうか。イエス様に対して「信じてみよう」と思われるような質問をしました。その質問がv38です。

「読む」-読んでわかるとおり、その質問の内容は「そんなに言うならあなたがメシアであることを証明するしるしを見せてほしい」というわけです。

 それに対し、イエス様は3つの答えの中から、イエス様が私たちにかたっているメッセージを聞きたいと思います。
実はパリサイ人というのは私たち人間のかたくなな心を表しているのです。

パリサイ人が「しるしを見せろ」というのに対してイエス様は

v39-40のところで、 まず

1つ 「しるしを求める」ということは悪い姦淫の時代の人々がすることだといわれ、しるしを求めることは正しい信仰の仕方ではないということを語られました。
また、特に「姦淫」という言葉からしるしを求めることは、あっちの神様、こっちの神様と2又、3又をかけて歩きまわるような浮気心の迷いやすい不信仰な人々のすることと考えておられます。
しるしを見たなら信じようとか。しるしをみてから信じよう。という考えはあまりよくありません。(平凡な毎日の中に神を感じられないので異常な事の中に神を見ようとする)

2つ しるしを求めることは良くないばかりか今度は原則としてしるしは与えられません。と語られました。もちろんヨナのしるしの他にはですが。
皆さん、私たちは以前に、またある時は今でもイエス様が本当の救い主メシアである「しるし」「証拠」をみることができたならなー。どんなにしんじやすく、疑ったり不信仰になったりしないで済むのになー。とおもうことでしょうか。


神の姿を見れたならなー。(信じられるのに)いや声だけでもいい。
いやいやせめて天使でもいい。
いやいやもっと夢の中でも幻でもいい。イエス様を1目見れたらなー。

しかし、皆さん イエス様は言われます。「しるしを求めることは良くないばかりか、与えられません。」ですから皆さん思い切ってあきらめましょう。イエス様がメシアであることを奇蹟とか超自然的な力や魔力のようなもので信じようとするのは。
(パリサイ人ならずとも私達でも科学的にに証明されてからでなければ信じないという心を持っている)

3つ しかし、イエス様は私にもしるしがある。それはヨナのしるしである。それ以外に私がキリストであることを証明するしるしはない。と語られました。
ではイエス様がメシアであることを証明するしるしである。「預言者ヨナのしるし」とは一体どんなしるしなのでしょう。
それは聖書のヨナ書の中に書いてあるしるしのことです。開いて読んでみましょう。

ヨナ1:15-2:1と2:10-5???

この3日三晩 ヨナは魚の真っ暗なおなかの中にいた。という物語はイエス様の十字架で死なれて生き返るまでの3日間を預言していたんですね。
OTは誰について書いている本ですか。もちろんイエス様です。それなら
もしこの3日3晩がイエス様の土の中の3日間を示さないとしたら、ヨナの物語はドキメンタリー物語か、単なる小説にすぎません。
皆さん。1つだけあるイエス様のしるし、十字架と復活
これがメシヤのしるしだというのです。これこそメシヤの証拠です。人間の罪の身代わりに死に、人間の最大の敵である。詩を打ちやぶって人間の初穂として甦ったイエス様、この贖いの業である十字架と復活のない者は救い主ではないのです。

イエス様が救い主である唯一のしるしは十字架と復活
皆さんこれを調べてみてください。イエス様の十字架と復活が歴史上の事実か。もしこれが嘘であったり、なかったことであるとわかったなら、世界の1/4の人口をしめる全キリスト教会は崩壊するのです。
ベンハーという本や映画はご存知でしょう。
あの物語はどうしてできたかわかりますか。アメリカの軍人であったルイス・"ルー"・ウォーレスはキリスト教に反感を持ち、はなもちならぬキリスト教徒め、偽善者のバケの皮をはいでやる。そのためにはイエスキリストの十字架と復活の事実が歴史上の事実でなかったことを証明すればよいとわかってキリスト教をつぶす目的で執念を燃やして何十年も、何万ドルという大金をつぎ込んで世界中旅行し、資料を集めて歩きました。キリスト教を潰すことができたでしょうか。いいえ、彼は調べれば調べるほど十字架と復活が歴史上の事実であり、否定できない歴史上の出来事であったという結論に行きついてしまいました。ついにかれは自分の神に対する挑戦と高慢を悔い改め、クリスチャンになりました。そしてあのキリスト教を全滅させようとして集めた莫大な資料がベンハーになったのです。
皆さん。もし、しるしを求めるなら、この十字架と復活を求めてください。
このしるしはみなさんに信仰の革新と聖霊による生まれ変わりを与えてくれることでしょう。


本論Ⅱ しるしがなくても信じられる。 v41-42


次に少し考えてみなければならないことがあります。イエス様が救い主であるしるしは十字架と復活であるとしても今目の前に立っているパリサイ人達にとって十字架と復活はまだ起きていません。なぜならイエス様はまだピンピンしているからです。

ですからパリサイ人たちにとってこの十字架と復活はしるしだといわれても信じるためのしるしとして何の役にも立ちません。

 それではパリサイ人たちはイエス様を信じ受け入れることはできるのでしょうか。しるしか他にないとすればもう不可能なのでしょうか。

イエス様は、このような理由からたとえしるしがなかったとしても自分を救い主として信じ受け入れることはできるのだということを立証しなければなりませんでした。そのためにイエス様はOTの中から2つの物語をかたられました。


2 ヨナの説教によって信じたのならイエス様はヨナ以上の者だから


ヨナはアッシリアの主都ニネベに宣教師として出かけ直し説教をしました。そうするとニネベの人々はヨナの説教を信じてまことの神に悪い行いを悔い改め、神の怒りによる滅びを(まめかせる??)事ができました。

 イエス様はこう語られるわけです。ニネベの人々はヨナに向かってしるしをださなければ信じないとは言わなかった。ただヨナの説教によって悔い改め、神の救いを受け入れたではないか。
しるしなしに説教によって、ヨナによって救いを受け入れたではないか。
しかし、ここにヨナよりもまさった者、偉大なものである私がいる。
それなのに私をしんじないのか。ニネベの人々はヨナの説教だけで信じた。それなのにあなた方はヨナ以上の私が説教し、聖霊の業による奇蹟まで行っているのに信じようとしない。だから、あなた方はニネベの人々からさばきの日にはさばかれることになる。あなた方には異邦人である=ニネベの人々よりも信仰がないからだ。


3 ソロモンの知恵によって信じたならましてソロモン以上のイエス様がいるのだから


同じように南の女王シェバの女王のことですが、
ちょっと読んでみましょう(Ⅰ列王10:1-3)

 シェバの女王はしるしをみてソロモンのところに来たのではない噂を聞いてである。また彼女はソロモンの知恵によって神を読めた耐えて満足して帰って行った。決してしるしをもとめたりしるしによってソロモンの知恵が神から与えられたものであることを疑わなかった。彼女もしるしなしに知恵によって信じたのであった。それならソロモンよりまさる私がここにいるのにまだ信じないのですか。だから終わりの時には異邦人のシェバの女王からあなた方は不信仰の罪を責められさばかれることになるのです。

私自身がしるしであり(業も)私において神と出会わなければならない。イエス様はこのような意味で、ご自身を信じ受け入れることが、決してしるしなしではできないようなものではないことを聖書をもって証明されたのでした。イエス様を私たちもしるしなしに信じましょう。あるとしても最大のしるしである十字架と復活によって信じましょう。
(ヨハネ 20:25-29読む)




本論Ⅲ しるしを求める者の結末 v43-45

今までしるしなしに見ずに信じる者の幸いを語られたあとに最後にイエス様はしるしを求める者の結末がどういう状態になるかをたとえ話をもって語られました。ところでこの時パリサイ人達はイエス様の答えに「グの根も出ないところであったでしょう。」しかし、すべての人が信じるという意味ではありません。後は信じるか。またこれ以上続けてイエスキリストを拒否するかのどちらかの選択しか残されていないのです。そんな彼らにイエス様は警告されました。このまま聖霊の働きが明白であるにかかわらず聖霊に逆らい、しるしを見せなければ信じないというかたくなさを続けるとどんな結末になるかということを。
この物語はパリサイ人に対する警告でありました。


汚れた霊が人から出て行ったとありますが、これは追い出されたのではなく、自分から出ていったのです。というのは出ていったのと追い出されたのでは違いがあるからです。

 当時悪霊を追い出すことはイエス様だけではなくても、パリサイ人たちでさえやっていました。ところがイエス様いわくパリサイ人たちの悪霊追い出しは実は追い出されたからでたのではなく、どこか別の良いところがあるかと思って自ら出ていくだけにしかすぎない。というのです。まず悪霊が1人の人から出たとします。そして水のない地に悪霊は住むといわれていますが水のない地をさまよってより良い休み場をさがしますが見つからず、元の古巣に戻ろうとします。その時、その人の心の中にはだれも住んでおらず、家は空いてた。とあります。そして掃除がされてあってきちんと住みやすいようにかづいていた。それで自分一人で住むのはさびしいし、たいくつだとでも思ったのか、どんちゃん騒ぎができるようにじぶんより「たちの悪い」悪霊7つ連れてきて住むようになった。すると1つ住んでいた時より悪くなった。この邪悪な時代の人々、パリサイ人や群集の心もそうなるであろうと言うのです。

皆さん かえって悪くなってしまいましたが、この人の失敗した実はどこでしょう。

まず汚れた霊が出ていったのはまずよいことでしょう。たとえ聖霊によってではなかったとしても、努力や薬草や洗礼にしても、とにかく出ていったのですから喜ぶべきなのでしょう。さらに掃除したのもよいでしょう。また片づけておいたのもよいでしょう。しかし、1つ失敗した実があります。それは何でしょう。それはv44の「家はあいていて」です。
そうです。心の家を留居にしたのがよくなかったのです。汚れた霊が出ていった後にすぐにイエス様を信じ受け入れて心の中に住んでいただければよかったのです。そうすれば7つの悪霊どころか、最初の住人すら戻ってこれなかったのです。問題は家を「空き家」にしたことです。
皆さん。みなさんの心の中はどうでしょうか。イエス様がいますか。それとも誰もいないような状態でないでしょうか。それとも汚れた霊が住みはじめていますか。この人の問題は早く心の中にイエス様から住んでもらわないで空き家にしたことです。

それではなぜ空き家にしておいたのでしょう。そこが問題になるわけです。そこです今日の一番の問題点は、それは聖霊に逆らいしるしをもとめてばかりいてそれがハッキリとこの目で見ないうちは受け入れない。そして、イエス様を早く空き家のうちに入っていただくことをしなかったせいです。彼らは偶像礼拝しないからー


しるしを求めづつけた結果 悪霊の充満する最悪の結果になってしまいました。やっぱりイエス様を信じるのには時というのも大切なんですね。この邪悪な時代もまたそういうことになるとイエス様は言うのです。

 そのとおりパリサイ人達は、これだけ言われてもなお心かたくなにし、聖霊に逆らいとおしました。そして十字架につけてしまいました。その十字架のうえにつけていてさえ、まだ悔い改めようとせずにしるしをもとめづつけていました。そして、「もしお前が神の子なら十字架から降りて来い。そうしたら信じてやるから。」といいました。なんという心の頑なさでしょう。

 しるしをみないと信じられない人の信仰はイエス様と十字架につけていてさえなお信じれないのです。つまり、しるしがないと信じれないという人は1生信じることはできないでしょう。

ですから今日のメッセージ

見ずに信じる者は幸いです。もししるしがどうしてもほしかったら十字架と復活に頼りなさい。このしるしの上に立つときに私たちは聖霊に従うものとなれるでしょう。いつまでもしるしを求め続けてはいけません。
サタンに付け込まれないように心に余地を残してはいけない。世的な熱心なクリスチャンの心の中には、悪霊もいないが、さりとて、主イエスが力強く王として君臨し、悪霊を寄せ付けないように支配しているわけでもない。(心と人生は真空の状態にし続けることはできない。)

※酒飲みが単に酒をやめると改心したとする。酒場にも晩酌もやめる。しかし、時間を持て余し、何か余暇をなにかで埋めなければと思うが今まで快楽ばかり愛し求めたものが生活のむなしさから結局また別の快楽に深入りしてしまう。
恒久的な(本物の)治療は本物のクリスチャンとして毎日キリストのために奉仕する。ということ以外にない(神のために生きられない者は結局、自分のためか世に振り回され悪霊に支配されるようになる)









  • [51]
  • 疑われるべきは師(個人的な考え)

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2014年11月 4日(火)00時12分24秒
  • 編集済
  • 返信
 
金粉が~とか銀の羽根とかが降ってきたとかそんな話を聞いたり見たのでしたら真っ先に牧師・伝道師を疑わしく考えた方が賢明です。(今回は誰が言ったとかそういった趣旨ではないので誤解なく)
触れないのに倒れたとかそんな話もいりません(受けたことあるけど)もし、治ったのであればその人の信仰のが直したのであって倒れたり、打たれたから治ったというものではないと考えます。もしそのような奇蹟があるとすれば祈りによって動かされたとしか言いようがないのですが・・・そのような経験をした方は身の回りにいたことは知ってはいますが何事も映像となるとうーんとなる・・・悪いわけではないのですが・・・

また、携挙について考えるのも、世界経済を語るにしても、自分が書きたいように書くというのはアマチュアのすることだと私は思います。もし、何かを予測・検証・晒すのであればそれにふさわしく添える花もしくは印を明かすべきです。

知恵があり、舌が回る方がいて用いられたい・他の人に用いてほしいと願う人がいるのであれば人の心を不必要に騒がせる発言は避けるかやめるべきだと私個人は思います。反ってサタンにダメ出しゴールを与えかねない。

才能の無駄遣い

幸いにも私にはそのような才能はございませんので基本的にはこの掲示板内に建ててもらったスレを多用するということはあまり考えていません。ただ、父の入用の時には利用させてもらって他の人に役立ててもらおうとしているにすぎません。

あくまでも個人的な考えを表明しただけです。

あまりこういう発言自体したくないのですが・・・ねぇ・・・
自分が人に対して文章に品がないと語る日が来るとは・・・

追記 いつも思うのは自分が思うほど文体の品性と文字から出てくる感情等は匿名では隠すことができない。プロでない限り

主よ。侮ることなくあなたを畏れる心をもって使える日々をください。

  • [48]
  • 瞑想1 結婚を考える男女が求めるべきこと

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2013年 5月 4日(土)08時37分34秒
  • 返信
 
今日は結婚を求めるべき男女が自己と相手に求めるべき事柄を書いていこうと思います。

まず手始めに今日の主題が結婚ということをです。結婚していない男女が最近増えています。私もその一人ですが・・・


ここでは私が結婚をするとしたらなにを相手に求めればよいのかという事を前提に考えていきます。

世の方はいわゆる自分が要求するステータスを持っている人を探して結婚する方もいらっしゃるかもしれません。
一昔前の話で行けば三高(高収入、高学歴、高身長)。最近では三手(手伝う(家事や育児への積極姿勢)手を取り合う(お互いの理解と協力)手をつなぐ(愛情)のようです。

世の中の人々は皆何かを欲するとき自分に足りない何かを求めて(相手を利用して)結婚しているようなのです。

ではクリスチャンが真に求めなければいけない物は何なのでしょうか?
み言葉でしょうか?

よく結婚したクリスチャンの男女はみ言葉が与えられて結婚したといいます。でもみ言葉は大事ですがみ言葉が与えられる事より大事なことのことを教えてはくれません。口では恥ずかしくて教えられないのでしょうか?

クリスチャンが結婚をする時に初めに求めるべきこととはみ言葉なのでしょうか?

つづく

  • [47]
  • メモ

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2013年 2月24日(日)23時26分27秒
  • 編集済
  • 返信
 
相手は私が嫌い→私に伝わる。私も相手が嫌いになる。
しかし、私は相手を信用しなければいけない。→相手は私を信用しない。
相手はマイナスのストロークことが多い=私は信用できないから話しかけない。

信仰とは信じて事はなったと実行することである。

相手が信頼してくれないのに信仰に立って信頼と信頼回復を望まなければいけないとは苦い盃を飲むのと同じである。

信頼しあわない関係において信じようとするという事は勇気が必要だ。一言間違えば切りかかられてもおかしくないそんな状況にいるのと同じだ。

人はだれでも腹にマムシの毒を持っている。特に女性は毒気が強くて女性のあつまる場所には無意識の中に含まれる毒のるつぼがあって私は近づきたくない。なので女性が集まるとろくなことをしゃべらないと思うので女性のあつまりは嫌いすぎて反吐が出る。

あれ?毒を吐いて話がずれたw

と・ともかく信頼関係のない中で相手を赦して信仰を実践することは難しい。人に首を差し出すことに等しい。

しかしそんな行為の中にも主の知恵がある。

マタイ18章23-35節
マタイ16章24-26節

の通りです。しかし、16:26は私は本質を本当の意味で理解していない。行動していないからだと思う。

人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。



人は、たとい全世界を手に入れても

がわからない。世界のすべて入れた人がいて主イエス様に従って生きようと決めている人がいたとしたらその過程何かが実を結んだことになる。
風船の薄い膜に何をあなたは詰めてくれるのですか?針を刺せば身がなくすぐ割れてしまうような立場の人生を歩んでどうして明日を生きれましょう?

出エジプト16章1-36
マタイ7章7-8


先日私の能力がないことを嫌って話したくないといっていた職員が隣の棟に飛ばされることを知った。ハレルヤ!彼女の人生に主の祝福がありますように!
主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」詩篇18篇2節

  • [45]
  • 祈りファイルⅣ 頌栄 国と力と栄えは限りなく汝のものなればなり。

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2013年 1月20日(日)19時04分13秒
  • 編集済
  • 返信
 
序論 マタイ6:13をご覧ください。かっこにくくられているのに気付く。どうしてかっこにくくられているのか。 外注の13という所には米印が2つ付いていて「最古の写本にはこの句は欠けている。」と書かれていますね。
つまり一番古い聖書の写本に入っていないということは、イエス様が主の祈りをおしえらえたときにはこの分は入っていなかったのかもしれない。ということなのです。ということは、この今日の個所っはイエスの弟子たちが後で挿入した文章であるということになるでしょう。言わば付録のようなものでしょう。しかし付録と言っても必要だからつけたのです。決して侮ってはなりません。これからイエス様が教えられなかったのに加えられるようになった理由を5つ話しましょう。

1当時のいのりという者の終わりには必ず神の賛美がついていたということ

2神の栄光を現すことを祈っている主の祈りの最後が悪魔ではおかしいという事。

3全員が声をそろえて告白するためにはどうしても告白文のような形にしなければならなかったこと。

4キリスト今日の祈りと主の祈りの精神にもっともふさわしい文の内容であったこと。

5最古の写本にはないかもしれないが使徒たちの初代教会においてすでにこの頌栄をひときわ高くとなえ、それに会衆が「アーメン」と応答してたことが記されているから(12使徒の訓練という2c頃の本)

以上の理由から 主の祈り そのものではないが主の祈りを唱えるに必要なふさわしい結びの言葉である。という事がわかります。
この頌栄、また讃美の言葉を学んで主の祈りを学び終え今年度の祈りの学びを終えることにしたいと思います。

このような神であればこそ、またこのような神を信頼しているのだ。という信仰告白があればこそきかれるのが祈りという者なのではないでしょうか。すべての祈りの原型であり模範である。主の祈りの頌栄は私たちにこのことを教えていくれているのです。私たちも主の祈りを唱える時、国と力と栄を1手に握っている神であればこそ必ず聞かれないはずがない。という確信で祈りましょう。

Ⅱ この頌栄は祈る者にすべての栄光を主に帰すことを得させることが出来ます。

私たちは祈ります。助けを求めて叫びます。主も祈りに答えて願いをかなえてくださいます。しかし、その願いがきかれていた時に私たちはどうしているでしょう。それにふさわしい感謝と讃美と栄光とを神に帰しているでしょうか。耳を傾け聞いてくださる神に帰すべき栄光と誉をちゃっかり自分に取ってしまっているのではないでしょうか。そして「けっこう私もやればできるもんだ。」「私も大したものね。」などと1人思ったりするのではないでしょうか。
 しかしそれは未信者のすることです。クリスチャンはそうであってはならないのです。あなたは守られています。あなたは生かされています。あなたは感謝する事々の中置かれています。あなたは喜べる人に変えられています。あなたは自分で気づいていなくとも人生における成功者です。それはあなたの努力でも自慢すべきことでもなく国と力と栄を1手に握っている神があればこそ、今の自分が家庭があることを覚え神に帰すべき栄光は帰すべきです。

イザヤ53:11~「主の僕は自分の命の苦しみの後を見て満足する。」とあるが、それは私たちが救われたものとして救いの業を為し遂げてくださった主に対して帰するべき賛美と栄光を帰するようになることを前提としてそう言っているのである。逆にもし私たちが帰するべき栄光を贖いの主に1つも帰さなければどうでしょう。それでも主の僕は自分の苦しみの後を見て満足するのであろうか。むしろがっかりしてしまい自分が何のために苦しんだのかわからない。と不満を漏らすに違いない。

又、       にイエスのエルサレム入場のことが書かれているが、パリサイ人たちは群衆のホサナという讃美の声や自分の大切な上着を道にしいたり、シュロの葉をしいたりして神の僕に栄光あれと叫んでいるのを見て冷たく非難した。それに対して主は「もし群衆が叫ばないなら、この石が叫びます。と答えた。
つまり、当然このぐらいの讃美や栄光は帰すべきである。と言われたのである。私たちはこの群衆のような心からの讃美と栄光を主に帰したことがあるか。この頌栄の言葉は私たちにこのことを教えているのである。




 この頌栄は私たちに自分が被造物に過ぎないことを意識させ、謙遜なものとして歩ませることができる。私たちは本当にこの頌栄を信じて告白しているのか。もし私たちが本気で「国と力と栄えはとこしえに限りになく汝のものなればなり」と告白しているとしたらあなたの生活は変わるはずです。私たちは神とその力をあまりにも少さくしている。否、信じていないのではないか。ベンケルというドイツの敬虔主義の聖書学者は、もし私たちが天国に行ったときにはきっとこういって主を讃美することでしょう。と言っています。

「ほむべきかな 神の御名 御国は来たれり 御心は成れり われらの罪は赦されたり 試みは終れり しかして 我らは悪より救われたり。国と力と栄とは永遠より永遠に汝のものなり(ものであった)アーメン」と。アーメンという言は「真実である。」という意味であるが。
 私たちにもやがて必ずこういう日が来るのです。「主は本当に真実であった。私たちのすべての祈りは聞かれていたのだ きかれていない祈りなど1つもなかったのだ。だからもっと祈ればよかった。神の国において祈る者だけが働くものである。という言葉はまさに真実であった。 なぜなら本当に主はすべての国と力と栄えとを自分のものとしておられたからである。」
 だからもし私たちが本気で国と力と栄えが限りなくわれらの神のものであり、我はその信仰者である。という事を認めて告白するなら私たちは          <自分はこの国と力と栄を支配している者の被造物であり、僕である>ことをいしきするようになり、真に謙遜な者とされ、真に祈りに打ち込む者となることでしょう。


Ⅰ この頌栄は祈る者に必ずきかれるという確信を与えることが出来る。


ギリシャ語で書かれている。打てません。省略


私たち土の器であり罪深い人間がこのような神の栄光を現わすという主の祈りを祈ってきかれるという理由はどこにあるのでしょうか。私たちに私たちの父なる神の憐れみ1つにかかっているのであり言い変えれば、その父が国と栄えを、1手に握っておられるかどうかにかかっているのである。

もし私たちの神も(イザヤ41:18-20にあるような)力のない偶像の神であったらいくらこの祈りを唱えてもきかれることがありません。しかし私たちの神は生きて働かれる本物の神であり国と力と栄えを1手に握っておられるのです。

イザヤ41:15-17 この世の国々の力
イザヤ41:18-20 この世の神々

それに対して41:21-26父なる神の御力のいだいさという事が書かれている。

僕の満足 イザヤ53:11 満足するのは信者が主の業に感謝し栄光を帰すからではないか。

エルサレム入場 パリサイ人があまりにはでは讃美を非難した時、主は意志が叫ぶと云われた。私たちはあのエルサレムの群衆のような讃美を


以上ファイル4でした。

  • [44]
  • 祈りファイルⅣ 多分第六の願い後半?

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2013年 1月14日(月)20時53分49秒
  • 返信
 
1ページ丸々ないので1ページ省略して途中から

と力んでみても、悪を行わざる得ない。弱い存在であり、いかに悪に傾きやすいか。ということを知っておられた。その弱さの現実は当の本人が感じる所以上のものである。主からの守りと支えなくして生きて行くことのできないほどのものであることを人は自覚していない。それで主は自分の霊的現実を弱さとその必要を教えるために祈ることを勧められたのは至極当然のことである。

Ⅱ 悪を行う ということが神の前にどんなにいけないことであるかを教えるためである。人間は案外悪いことが好きである。
そして自分のやっていることや、この世の人々がやっていることが、どんなに神の前でいけないことであるか思ってはいないのである。(ルカ23:34)

しかし神の子たちには決してそんな程度の意識でいてほしくない。もっと神の子としてふさわしく悪しき事々から離れるという意識を持って欲しかったのではないか。と思う。また、悪から離れる決断をして欲しいと思っているのではないか。―「私を悪から救い出したまえ。」という願いを本当の自分の告白として本気で祈るほどまでに。
 ところでイエスの十字架と復活とは何だろう。もしイエスが十字架を楽々と過ごしたとすれば、それは購ないにならなかっただろう。では「神よ。なぜ私をお見捨てになったのですか。助けてください。死にたくありません。」というような叫びをあげられた、その苦しみは何であったのだろう。

それは神から捨てられる苦しみであり、罪あるものとされることであり、言い換えれば神に対して悪を行った者とされることの恐怖の苦しみであったろう。キリストの耐えれなかったこと それは悪を行う者とされることであった。それほどいやで嫌われること苦しいことであった。

とすればキリストが私たちに教えられた祈りの中で1番最後に締めくくりとして言いたかったことは「人は神の前に罪を犯すことは絶対にいけないことだ。」ということであった。だから「悪から救い出したまえ。」と教えられた。人はまだイエスキリストのように、神の前に悪を行うということがどういう程度のことか、ということをまだよく理解していない。だからこの祈りを真剣に重要なこととし、自分の心からの告白として祈れないのである。

-----------------------------
※どの程度のことか? へブル12:3-4
◎罪と戦って血を流すまでに抵抗しなければならないほどのことである。誰も見ていなくとも私たちは罪を犯し、悪を行うことに対して血を流すほどまで戦い、それを避けるために抵抗したことはあるか。恥ずかしいがないと私は思う。
---------------------------------------

Ⅲ 祈りによってのみ人々を悪から救い出すことが可能であることを知っていたから、祈り求めることを勧められた。(マタイ26:35,39)
もし、人が祈りによって悪から救い出されることが不可能なのであれば教えることはなかったでしょう。しかも祈ることが最も大きな方法であることを知っていた。頭で知っていたのではなく体全体で全存在で知っていた。それは体験済みであったから。
イエスキリストはサタンの誘惑に対し、祈りのうちに与えられたみ言葉によって悪の親分を打ち破り、十字架と復活によって悪に対して根本的に完全勝利した唯一の人として知っておられたのである。
 また、祈りによっては大いに可能であるが、人間的にはどんなに努力しても悪から救い出されることは難しい。Ⅰテモテ6:11 にあるように、ある程度悪を避けることは可能である。しかし、ひとたび悪の泥沼にはまり込んだ人が罪と悪から這い上がることは不可能である。しかし、しゅはどんなドロ沼からでも祈りにはそれができることを、いや祈り以外にはないことを知っていた。だからこそ真剣に祈るように勧めれた。
また、主はイエスキリストの御名において教えられた。この祈りに神が必ず答えてくださることを信じておられた。

最後に主の祈りは神の聖なる位置、神の神聖なる御名、御国と御旨の成就することをいのりもとめ栄光を帰し地に下って私たちの肉体の必要へと降りて行き、更に深く下って罪を赦すという精神的必要、更に深く下って試み、悪しき者という霊的必要に答えてくださり栄光を現す者となれるように祈ってきた。そして、これいじょうの深みに陥ることの内容に深淵に封印しサタンの力から解放する神の恵みに対する最高の感謝と賛美、頌栄へと再び天に昇っていく。

試みの背後に悪い者がいることを覚えてイエスは教えられた。

 たとえサタンであったとしても 神のゆるしなくして、神の子たちを悪に誘惑できるものでないことを知っておられた。つまり神とイエスキリストこそ、悪から救う者であることを知っておられた。(ヤコブ1:2,12 ヤコブ4:7)

 この事実を知ることは、私たちにとって大切なことであり大いに益である。素晴らしいことである。なぜなら私たちに臨む、この世のあらゆる悪しき事柄も、神も知らないようなところのものではなく神のゆるしあって初めてサタンも手を出せるのだと知るからである。→つまりサタンを必要以上に恐れなくてすむから いやむしろサタンにさえたちむかうことができるからである。

ということは私たちを降参させるためのサタンの誘惑であったとしても、神がそれを赦された以上、それはもう一面では、私たちを成長させるための神の試練伴っていることを、たとえそうではなくとも主はこの祈りに答え、誘惑を試練に変えてくださるのである。また、主はこの祈りに答え、地上にあってはこの世の悪しき事々から、また再臨にあたっては悪ししこの世から救い出してくださる。

  • [43]
  • 祈りファイルⅣ 第六の願い 前半

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2013年 1月12日(土)23時14分16秒
  • 編集済
  • 返信
 
我らを試みに会わせず(第六の願い)

序 すでに犯した罪から救われるには許される以外にないことは前回学んだとおりである。しかし、これから犯すかもしれない罪から救われるにはどう対処すればいいのであろうか。そんな私たちに対して主はこの願いをするように教えられた。この祈りの中からその答えを学んでみよう。(この祈りを祈っていれば完全に誘惑に会わないと思っておられたのか)
まず 初めにはっきりとしておきたいことは、主イエスはあらゆる人間以上に誘惑の恐ろしさと勝利の秘訣を知っておられた。ということである。なぜなら

(へブル4:15)
①あらゆる誘惑を体験したことがあるからである。
②誘惑に完全に勝ち続けることのできた唯一の存在だから。

だから主はこの恐るべき試みに私たちが無防備でいることのないように。とこれを教えられた。

Ⅰ 試みるものはだれか。

①神ではない。(ヤコブ1:13)

②悪魔であるが、神がそれを赦される。(ルカ22:31、ヨブ1:12)
?み使いに変装してやってくる。(Ⅱコリント11:13-15、マタイ7:15)
「悪魔を体験的に知るには神に服従することである。」―悪の擬人化 古代人の迷信

③自分の欲望や罪である。(ヤコブ1:14.15)

Ⅱ試みとは何か。 試みられる時の原因は色々ある。死別、失態、病、老、受験、恨み   しかし目的=本質は1つ。それは不信仰にさせられる事。そして罪を犯し滅びへ

ギリシャ語で読めません。―神の試練と悪魔の誘惑のどちらとも訳せる。

①天使の守護がなくなり自我が欲望にさらされること。マタイ4:11、1-11
★試みは光栄であって罰ではない。へブル12:5-13

②悪魔が近づき、神に対して罪を犯せられる事。
創3:8
主の御顔をさけて―疑う必要のない神に対し疑いをさしはさむ。自分の思うように生きてなぜ悪い。神を信じ従うことに意味を見いだせなくさせる。一般人と同じように生きてはなぜ悪い。

③自発的神への反逆に自我が駆り立てられること。(神の御心に対して積極的に反逆してしまう。その戦争はどこか。自我である。受ける所、乗ってしまう所があるから誘惑される。)

④悪魔礼拝させる必要―究極的なサタンの目的。


御霊の支配下にある人間


依然として自分が自分を支配している人間


Ⅲ神はなぜ人が試みに会うのをゆるされるのか。(もちろん勝利させるためであって堕落させ滅びに落とすつもりではない。)

①同じように罪に苦しむ人々を力づけさせることが出来るため(ルカ22:31-32)

②神の聖さにあずからせ、キリストに似たものとするため。に神が誘惑を用いられ、益と変えられる神の訓練の的ともなる。(へブル12:10)

③誘惑に打ち勝つことにより「あなたがたのうちにおられる方が、この世にいるあの者よりも力がある。」ことを証明するためであり、クリスチャンに神の栄光を現させようとするからである。(Ⅰヨハネ4:4)

  • [42]
  • 祈りファイルⅣ 第四の願い

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2013年 1月 3日(木)20時29分59秒
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我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

Ⅰ この祈りは人間がもっと神に対して日々の糧についての感謝をささげなければならないことも示している。どうすればもっと感謝できるか。

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1糧の感謝をもっと
①自分の存在を知ることによって
②食事の意味も知ることによって

2神が与えるもので満足を
①日々の必要以上のものダメ
②祈るものに最低の保障
③自分だけが食べることを許さない。

3糧を求めることは正しい姿
①祈っていれば働かなくてよいか。

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① 自分の存在を正しく知ることによって
 まず私たちは自分が神から日々の糧を与えられるようにふさわしいしかくがある。ということを思っているうちは神に感謝することはないだろう。当然黙っていても与えられるものと信じているからである。しかし、実はパン一切さえ神から与えられる資格すらない存在である。と知った時から神から与えられる資格すらない者である。
 もし、私たちが神に憐れみを乞わなければならない存在である。と知った時からその人は神に対して日々の与えられる糧についての感謝をささげ、祈るようになるでしょう。ということは、自分の存在を正しく知るように導かれた人、つまり心貧しいひとはたとえ自分の手で働き、得たものであったとしても それは神の憐れみによって得ることが出来た恵みであると考えるようになる。ということである。
そのような意味から考えるとイエス様は自分の筋肉をはたらかせて石や木を運び、けずり、汗を流して金を得、未亡人の母マリヤや弟、姉たちを養っておられたのにかかわらず、神に感謝をささげ、又祈り求めていたということであるから 主は全てが神からの恵として考え受け取っておられたことを示している。 主は本質において神であられたのに神の恵によってのみ生きる者としてへりくだって生きておられたのである。
へりくだる必要のない主でさえ自らそのような存在のところにへりくだらせておられたとすれば 我々はなおのこと自分自身の存在を知っているものとして、もっと日々備えられている糧について感謝できるのではないか。また、そのような者として祈り求めていくべきではないか。

②食事の意味を知ることによって

人間の食事とはライオンの狩りの食事とは違う。

キリスト者にとって食事とは常に飯を食べることではない。肉体の必要を満たすガソリン補給の時ではないのである。では食事とはクリスチャンにとって何か。それは養ってくださる神との交わりの場である。神の養いに預かる時なのである。いわば、神の食卓につかせられているのである。となるともはや食物は物ではなく神の愛である。私たちは食事をする時、神に養いにあずかっている。神の食卓に招かれている神身の愛の接待を受けている。と考えたことがあるだろうか。神の愛を覚えないような食卓はクリスチャンの食事ではないのである。 もし私たちが食事の意味をしるならば食卓に感謝がのぼらないことの方がおかしいのである。

Ⅱ この祈りは神が与えるもので満足すべきことを教えている。

①日々の必要以上のものを求めることは主はゆるしていない。
 主は糧を祈り求めるべきことを教えられた。主は神のために生きるものは食べるものも食べず着るものも機内でやせ我慢して生きることを(統一教会のように)教えられなかった。そして信仰者として生きるというような立派なことだけ祈っていればよろしい。とは言わなかった。むしろ肉体という現実の必要を持っているものとして素直に痩せ我慢したりせずに気軽に求めることを勧められた。しかし、主は祈りの中で明日の糧、一年先の糧の分まで祈ることを許されなかった。しかも一日一日を日々の糧をもとめるようにと言われた。

② 主は神に祈るものにたいしては最低の保証をしておられる。
 そういう意味で主がこの祈りをするように勧められたとき、主は将来の不安を覚えていたので祈るように言われたのでは全くない。逆である。まったく生きることの不安を覚えることのない思いで祈ることを勧められたのである。すなわち40年間も日々イスラエル人にマナを降らせて飢えさせたことのない神を覚えていればこそこの祈りをするように勧められたのである。そういう意味では不安な心で祈る祈りではなく安心して祈るべき祈りである。
そういう意味では嘆願というニュアンスではなく感謝というべき祈りである。

③主はこの祈りを祈る者に自分だけ食べることを赦さなかった。

主は「私たちの」と教えられた。祈っているとき、食べれない人がいることも、その隣の人のことも考えることを求められた。主は兄弟姉妹の1人でも乏しくあることを(貧しくはあっても)赦そうとはされなかった。この祈りを祈る者は決して自己中心ではありえないのである。

Ⅲ この祈りは人間が神に糧を求めるということが正しく微笑ましい姿であることを教えている。

①「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈らせることによりキリストは神との正しい関係に人間を置こうとしておられたのである。そしてこの時キリストの頭の中にあったことは、アダムとえばの物語であったように思う。というのは、人類は罪を犯して以来、人間は「自分で働いて食べなければならない者であり、神に糧を求めることは恥ずかしいことだ。」と思うようになっているからである。
 しかし、真理はどうかというと、人間が作られた時、アダムとエバは神に依存して生きる者であった。それは弱虫なのでもなく、怠慢だからでもなく、神の甘やかしでもなかった。また、おかしなことでもなくいやしい根性からでもなかった。それが神と人間のただしい姿であったのである。

ところが悪魔に騙されてからの人間は神に依存して生きることを嫌い、糧を求めることは情けないこと、恥ずかしいことと思うようになった。ちょうど私の父が、「お前はかすみ食って生きて行くつもりであんめ。神様さ 何ぼ祈ったって天から食べ物おちてくるわけでねさげ。」と救われる前に言った時の心の中そのものである。

 しかし、神の世話にもならず自分の力で食物を得ようと考えた結果は(盗みと殺人と不和、妬み、むさぼり、不安と呪いと死ばかりであった。神から離れて生きることは死を意味していたのである。
 だから私たちはこの祈りをする時、こうして神に糧を求め神に依存して生きることは正しい姿であり、正しい関係に自分が立っていることを悟り、これが実に微笑ましい姿であることを覚えながら祈るようにすることが大切である。

② しかし、最後に付け加えておかなければならないことは「神に祈り求めていれば働かなくてよいか。」ということである。もちろん否である。
パウロが「自分の手で働いて食物を得なさい。」とか「働きたくない者は食うな。」とか教えているとおりである。
 しかし、あなたはいうかもしれない。「それは矛盾だ。」と。しかし、聖書は言います。「神に糧を求めることと、自分の手で働いて糧を得ることは矛盾しない」と。
なぜなら

①罪を犯す前(つまり神に信頼して生きていた時からすでに)働いて糧を得るものであったからである。

②創3:17で「働いて糧を得るように命じているが、あれは働いていれば神に信頼しなくてもよい」ということを言っている言葉ではなく、むしろ逆で、働いても働いても十分に糧を得ることは難しくなる。それはあなたが2度と「神に信頼しなくても生きて行ける。」などと考えなくなるようにするための神の制度であり、罰でもある。という意味であるからである。

であるから私たちは糧があってもなくても、神に糧を求めていくということは正しいことであり、微笑ましいことであることを深く認めなければならない。





以下ページ番号なしなので記載すべきなのか判断つかないが書き込む。




「我らの」―①
「日ごとの」②

いままでわたしたちはみなを崇めることについて御国を来らせることについて御心を為すことについて学んできた。つまり神のために生きるという願いについての学びであった。続いて私たちのいくつかの必要について学ぶわけであるが、第一の必要は日ごとの糧である。
しかし、この必要について私たちは安心することが出来る。なぜならこの第四の願いは神のために生きるものの最低の必要は神が保証していてくださることを教える祈りだからである。この祈りをイエス様が教えられたということは、イエス様が神のために生きるものは神に支えられてこの地上の生活をおくるのである。という意識を持っていた。

Ⅲ「糧を」―

「人はパンだけで生きるのではなく神の口から出る1つ1つの言葉によっていきるのである。」これはイエス様がOTの申8:3でモーセが荒野の民に対して語った時のものを引用されたみ言葉であるが、このことばは40年間もの年月を主によって養われたその他身に対して語られたことを覚えておくべきである。

イエスキリストご自身が天から下ってきた(マナ)パンであるといわれたこともある。これらを総合するとイエス様はこの「糧を」と言われたとき、霊と魂の糧をも含めて祈り求めておられたということは明白である。ゆえに私たちはマナを毎日ひろい集めなければ生きていけなかったイスラエル人のように、この世という荒野のような世界にあっては霊の糧でありぱんである「み言葉とイエスご自身」を与えたまえと祈らなければならない。ことを教えられる。



「与えたまえ」―① 信頼(絶対的)
この祈りは人間は生きることの源泉を神に求めるべきであって自分の力や人の情けに頼ってはならないことを教えている。つまりこの祈りは人間というものが神の前には欠貧であり、神の恵みをいただくことなしには生きてゆけない存在であることを教えている。
ということは、たとえ自分で働き、自分の手で得た者であったとしても、それは神の憐れみによって得ることが出来た恵でしかないということである。

そのような意味から考えるとイエス様は自分の筋肉を働かせて石や木を切り、削り、汗を流して未亡人のマリヤや弟、姉たちを養っていたのであるが、それでも自分の力で食べさせているとは思っていなかった。神の恵みによって生かされているものであると考え、「父よ。与えたまえ」と祈られたのである。
この祈りは主が決して当たられないことを恐れて祈り求めたのではないことを覚えるべき。むしろ与えてくださっていることへの感謝であり、これからも与えてくださるということの確信であり、絶対的な信頼の祈りなのである。


神は養い主である。自分で生きているのではなく神の恵みによって生かされている。生きるも死ぬも種にかかっている。

ゆえに食事は養ってくださっている神との交わりの場である。
祈らなくても与えてくださっている。それでも祈ることは与えられないことを恐れて神に求めているのではなくむしろ常に与えていてくださることへの感謝である。
1回の食物に感謝することをしらないものはほかのどんな素晴らしいことが与えらえても感謝することはないだろう。
当然与えられるものと思っていてはならない。ジブは1片のパンさえいただく資格のないものであることを教えるためのもの。
人間の物質的生活の必要においては最低限度、祈ることを赦されているのであって、それ以上の豊かさを祈ることを












  • [41]
  • 祈りファイルⅣ 第三の願い

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2013年 1月 1日(火)21時52分23秒
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第一の願い クリスチャンの第一に祈るべきことは「御名を崇めさせ給え」である。

第二の願いでは御名が一番崇められる所といえば、天の御国である。御国こそ御名が思う存分崇められる所なのです。
 ではどうして御国では御名が崇められるのでしょう。もちろんそれは 第三の願い 神の御心が行われるからであります。実に神の御国では神の御心が完全におこなわれるのであります。

ですからこの3つの願いというのは、言葉も内容もみな違いますが

①「神の御心が完全に行われ
②天のみこころが完全に行われ
③御名が崇められるようになってほしい」

という本質的には1つの願いでしかないのです。これは神の栄光を表すために作られた人間の深い心の底からの祈りなのです。たとえ本人がそこまでの思いに至ってなかったとしても。


1の3)2重の創造

なぜなら神は神の御心を行う者として人間を作られたからです。神は神の御心を行わさせるために人間に対して2重に大いなることをしてくださいました。

a 人間を神の形に作り、自由意思を与えて、神ご自身に似た存在を持とうと意図された。そしてご自身の愛に応え、報い神の御心を行わせようとさせた。

 しかし、この神の計画は人間の自我によって見事に粉砕されてしまった。しかし神はそれであきらめず、人間側の欺瞞的性格、ひねくれた人格、反逆心、強い自我意識をもっていることにもかかわらず神は

b 神の家族への回復――罪許されて
生まれ変わって神の子供となり神に帰ることを計画し、成し遂げてくださったのである。にもかかわらず神の子供とされた私たちは神の御心を行っているか。

ではこの願いを唱える時私たちクリスチャンはどんな心で祈ればよいのか。


神の御心が行われていないこの罪の世と自分自身を憂いつつ祈る。

1の6)

毎日のニュースを聞いているとこの世というのはまったく神の御心が行われていないところだということがわかるでしょう。こんな世の中早く消え去ってしまえばいい。と思いたくなるほど嫌なことが多い世の中です。争いがあり、病があり、失望あり、貧しさがあり、悲しみがあり、不正があります。まさにこの世は罪の世であり、神の御心を行うことを知らない世界である。そんな時もし、福音さえ彼らが知っていたらとおもわないでしょうか。さらに神の御心が行われていないのは何もこの罪の世ばかりでありません。自分自身の心や自らの生活を見てもそこに神の御心は仲々なされておりません。天の御国の出張所である教会の中を見ても不信仰があり、罪があり、不和があるということはしばしばです。そんな時どうして私は、そして私の教会はどうして神の御心を行えないのか。いや、むしろ行おうとさえ本気で思っていないのではないだろうか。と思ったことはないでしょうか。これが私たちの姿であり、私たちの現実であると思う。
          しかし、

私たち人間の関心は(特に神の子とされた者たちは)
①御名が崇められること②御国が来るように願うこと③御心がなされるように、ということであるべきである。ところが悲しいことにクリスチャンの大部分の人々の場合の関心は常に自分のことである。どうして自分のことしか考えない人が神の御心がこの地で行われますようにと祈って良いだろう。それは偽善者である。しれなら「どうぞ神よ。私に私の欲望を果たさせたまえと祈るほうが真実である。」そんな人がどうして異教徒たちの「家内安全、商売繁盛、無病息災、延命長寿」という祈りを笑うことが出来るでしょうか。彼らのほうがはるかに正直ではありませんか。

Iの1)
私たちはまずこの「御心をなさせたまえ」という願いにあたって第一にすべきことは、この罪の世を憂いると同時に神の御心を行っていない自分自身を本気で悲しむことではないでしょうか。

Iの2)
キリストがこの願いを唱えさせることにより私たちがいかにキリストを愛してもいず、、神の御心をどんなに行ってもいない者であるかを気づかせ神の御心を行う者にならな枯ばならないことを心から悟らせるためにこの祈りを教えられたことを知らなければなりません。

Ⅱ 御心を行うことにより、幸せになってほしいと思ってこの祈りを教えられたキリストが私たちにこの祈りをするように勧められた時、神の御心に従うことがどんなに祝福であり、従わないことがどんなに災いであり、破壊的な結果をもたらすかを律法によって、又イスラエル王国の実際の歴史上の体験によって知っておられた。

申命記28章「呪いと祝福」

申11:26-28 申のどこを見ても書いてある。 30:11-20
Ⅱ列 17:12-20


更に私たちは神の御心に従って生きることは窮屈でつらいことばかりで何の喜びも感じられないことのように思いがちであるが、決してそうではない。人間にとっての真の喜びや、平安、自由は神の御心を行っている中に感じられるものなのである。逆に言えば金や名誉がどんなにあっても神の御心に逆らって生き、罪を犯したり、自分のためだけに生き自己中心の思いで生きている人が真の喜びや真の平安や真の自由を感じることは絶対ないということである。事実イエスキリストをはじめパウロやOT・NT問わず、偉大な生徒たちは例外なく神の御心を歩むことができるという地点に到達していただけでなく、神の御心を実際に喜び楽しんでいたということを見出すのである。ある人々にとっては神の御心を行うことは決して苦痛ではなくまったく喜びである。という事実である。このことを知っておくことは

Ⅰの4)

キリストがこの世に降りて来られた理由は1つ 神の御心を行うためであった。キリストが詩をあえて選ばれた理由は1つ神の御心を行うためであった。そしてキリストは自分がかみの御心に従って歩んだだけでなく私たち人類をも神の御心に従って歩む者とするために生まれ、生き、そして死なれたのである。キリストの存在理由は神の御心を行わせることにより真の幸せを人間に与えることであった。私たちはそういう意味においていかにキリストが、私たちに神の御心を行う者とさせようとしていたか。そして、いかに幸せな者とさせようと思っていたかを考えながらこの祈りを祈るべきである。

Ⅲ なんとしても神のみこころを行う者になりたいという強い願いをもって祈るべき。

私たちはかみのみこころが行われていない世であることを憂い、さらに神のみこころを行うことが中々できない自分や教会であることを悲しみはするが、だからと言って本気で神の御心を行う者になりたいと思えないのはどうしてであろうか。自分でも不思議なくらいである。そればかりか毎週いや毎日のように主の祈りを唱え「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ。」と祈りつつも本気でそう祈ってないのはどういうことであろうか。私たちは口では「みこころ、みこころ」と唱え祈りつつ、頭の中と心の中では「主よ 自分の欲望とわがままをさせてください。」と祈っているのではないでしょうか。
どれくらい本気で私たちは「神の御心を行う者にしてください。」と願っているのでしょうか。いやあるときは本気で願ったのかもしれません。しかし、この世の中の魅力が多くて強くて、その思いが長く続かなかったのでしょう。
そして信仰生活が長くになるにつれてその思いが薄れていったのでしょう。
 それでいてクリスチャンとしての真の喜びがあるかといえばない。
真の平安があるといえばそれもない。真の自由があるかというと言えばそれもない。そして、「主よ主よ。という者が天の御国に入るのではなく、私の御心を行う者が入るのです。」というようなみ言葉におびえながらこのままでは天の御国にすら入れてもらえないかもしれない。といっているのではないでしょうか。さりとて本気で神の御心を行う者になろうという気にもなれないで中途半端な迷いの生活をしているのが大部分のクリスチャンの現実の姿だとおもいます。
ですから私たちはいつかどこかで必ず、私たちの意思を捨て神のみこころの上に置かなければならないのです。そうしなければあなたは今のままでしょう。
私たちが神のみこころを行なう者になれるかどうかは私たちの意思を神の御心に同意させるかどうかにかかっているのです。フィリップ・ケラーという人は「クリスチャンの成長も成功も聖めも90%以上はひとえにこの目的を達成するか同課にかかっている。」と言っています。
私たちはここでキリストのことを思い出すべきです。キリストは私たちをして神のみこころを行なわせ、そして、真に幸せな人にしようとしてこの世に来られ、そして苦しまれ、そして死なれ、そして甦られたことを
そして今も私たちが神のみこころを行なう者となり、真の喜びと平和と自由の中に生きるものとなるようにとりなしていてくださるのです。そこまでして私たちが神の御心に従う者となることが出来るようにと働きかけていて下さるキリストの心を思い出すべきです。そればかりでなく神の御心に従うことが出来るようにと聖霊までつかわしてくださるのではありませんか。
私たちは大胆に聖霊の力と助けをかりながら、自分の欲望の上においてしまっている意志を神のみこころを行なうということのうえに置きかえていただこうではありませんか。そこまで至らなかったらキリストの死は半分犬死にということにならないでしょうか。
何としても神のみこころを行なうクリスチャンとならせていただきましょう。

  • [40]
  • 祈りファイルⅣ 第二の願い

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2012年12月31日(月)23時37分47秒
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〔序〕御国=神の国= βασιλείαν(多分これであってる?)…(神の王国)物理的領土でなく支配、領域(支配、領域)

神の国
①新生者以外は入れない。ヨハネ3:3
②霊的王国(不可視) ルカ17:21(心の中)
③国の民として生きることは難しい。 ルカ9:62 18:25、29
④人が第一に求めるもの マタイ6:33
⑤資質

私たちはこの言葉を祈るとき、どういう心で祈ればいいのであろうか。それは決定的に大事なことであるが、
「もし、私たちが、神の支配の確立に協力することを心に願っていないならいくらこの祈りを祈っても何にもならない。いや、こっけいなことである。」(主の祈り フィリップス‐87‐)

具体的に「神の支配の確立に協力することを願う」とはどういうことか。

〇正しいことだから信仰に入った―聖書の人々(真理だから)
〇救われたから信仰に入った。―救いとは「神に帰る」ためである。―ところが病気が癒されたくて、平安や生きがいがほしくて

礼拝―何のために来ているのか?
 1 恵まれたくて~ 恵まれる話を聞くために
 2 捧げたくて ~ 神との交わりの中で栄光を帰すために

ルターの要約
〇御国の君主たるイエスに純潔と希望
〇争いや怒りや苦々しさを克服し平和、一致、静かなる安息
〇来たるべき生活をすることが出来るように
〇この世を敵として歩ませたまえ
〇死を恐れず欲するように助けたまえ
〇この世の生活に執着し愛する生活から脱却させたまえ
〇私たちの中に神の国が完成すべく助けたまえ
〇私たちの感情、心、意志、感覚が、自分、肉、この世、悪魔に従うことなく私たちのうちに開始された御国を拡大、成長、改善し、イエスによってのみ支配させたまえ

本論1
私たちの心の中に神の支配を喜んで受け入れる。ことを願いつつ祈る。(マルコ1:15)―福音は悔い改めた者のものであり―クリスチャンは自分の主権を放棄した者たちである。生まれたままの人間の心は自分の生活の主権を誰にも邪魔されるのを好まない。また自分を作ってくださった神にさえ明け渡すのにまったく乗り気ではない。なぜなら赤ちゃんの頃から自分は自分の城の王であると思っているから。しかし、イエスキリストを信じて生まれ変わった神の子たちは別のはずである。彼らは喜んで神の支配を受け入れる者たちのはずである。ところが現実はどうかというと、大部分のクリスチャンたちは自分の生活の主権を神に明け渡さないで自分の思いのまま、心の向くままに行動している。そこでは私たちの心が神の支配を喜んで受け入れようとしていないという事実を知らされるのである。―このような心のままでは、資格はない。たとい、完全に明け渡すことが出来ていなかったとしても、せめて明け渡して神の支配を喜んで受けたいのだが。というくらいでないと。

〔例〕敗北したクリスチャンと勝利して躍動しているクリスチャンとの基本的な相異点は神がその御霊によってその人の命を支配されているかどうかにある。(私たちの主の祈り フィリップP82)
 だから信仰とは自分の命を神の御霊によって支配していただくためにゆだねることであり、言い換えれば御霊によって生かされることである。
 だから信仰とは生き生きと生きることである。しかし、信仰はしていても生き生きと生きている信者を見ることがまれなのはどうしたことでしょうか。
それは自分の主権を明け渡していない。クリスチャンだからである。だから、素晴らしい生き生きとした信仰者にしていただく秘訣は1つしかない。

このことである。

 しかし、もし、私たちが自分自身をそしてその主権を主に明け渡すなら、確実に神の国があなたのところに来ているのである。その時、私たちの中には「義と平和と聖霊による喜びに満たされ(ロマ14:17)」
私たちは神聖なる神の神殿の門番となり、うちにいます王なる主を守るためにあらゆる門番の仕事を果たすことになるでしょう。
たとえば、有害な食べ物、飲み物、音楽、読書が神殿の聖所に入るのをチェックするでしょう。さらに王なる主が逃げ出さらなければいけなくなるような危険分子の思想や考え方、偶像礼拝などスパイや裏切り者を体の聖所に入ったりするのを許したりはしないでしょう。
そればかりか神の国の支配と確立を願って命を賭して明石家集会出席、伝道、奉仕に励み、悪魔の軍隊を蹴散らすために戦い、人々に喜ばれ、まさに生き生きとしたクリスチャンとして生活することでしょう。だからこの祈りを祈る時、「私は私自身の命と主権を御霊の死体に委ねます。」という心で祈る必要がある。


本論Ⅱ
教会の中に神の支配が完全になされるように願いつつ祈る(エペソ1:22.23)
 たとい、この世の中がまったく神の支配の確立を認めようとせず、喜ばれなかったとしても、教会の中、神の御子の血潮によって購われた神の子供たちの間だけでは別である。自ら進んで神の支配を受けその権威に服し、その教会の中に神の支配が更に満ち溢れるように願っているはずである。
所で神の国の支配の確立ということはわかりやすく言うとすれば、どういうことでしょうか。どうするときに来るのでしょうか。
ルカ17:20.21 に「あなた方の中にある。」と言われているあなた方とはどういう人々であろう。もちろん神のみことばを学び、神のみ言葉に聞き従っている人々のことである。だから神のみ言葉が語られず、み言葉に聞き従ってないならそこは教会ではなく神の国の支配のもとにもおかれていないであろう。
 だから神の国の支配が教会の中に満ち渡るということはすべてのクリスチャンがみ言葉を熱心に学び忠実に聞き従う者たちの群れになる時に言える言葉である。だから私たちがこの祈りを祈る時、「私たちの教会はあけてみ言葉に学び従う群れとなります。」という信仰告白をもって祈るべきであろう。

本論Ⅲ
社会の中に神の支配の確立を願う心で祈る。マタイ4:8.9
どうすれば社会の中にくるか。世が進歩してだんだんとユートピアのような理想世界がくるのか。否。ではどうすればくるのか。「社会に神の支配が」というが、ではこの社会は神の支配下にないのか。この世の中の人々は本当は神の支配のもとにおかれているのに、いかにも、支配を受けていないかのように生活している。そういういみでは愚かといわねばならない。しかしもっと愚かなものがいる。それはサタンである。彼は自分がこの世を支配していると思い込んでいる。そして我が物顔にこの世を悩ませているが、実は自分が神の支配のもとにおかれていることを悟っていない。だからこの世の持ち主に対し、この世の中をすべてイエスお前にあげるから俺を拝め。と言ったりする。
まことにアホと言わなければならない。さらに自分の命の短さをも知らずに働きまわっている。ちょうどがんの末期にいることもしらずに、金、金、この世は金の世の中だといっている。我利我利盲者のごとくである。

 ゆえに伝道とはこの世を神の支配のもとにおくことではなく、この世に自分が神の支配のもとにおかれていることを知らせ、認めさせることである。そのように人間が自から神の支配を認め喜んで神の支配のもとに身をかがめるようになった時、まことに神の支配がこの世の中に確立されたといえよう。
 ゆえにこの祈りを祈る時、神の支配の確立を願い。「私は伝道に励みます。」という決意をもって祈らなければならない。

本論Ⅳ(結論?)
  神の支配が完全になされる栄光の御国が早く来るように待ち望みつつ祈るべき。
 神の国とはある意味で立派な国でも正しい国でも繁栄している。ということがキャッチフレーズの国ではない。先週学んだように御名が崇めれれるような領域であり、次週学びますように御心が行われるところであります。
 この世はあまりにも御心が行われず、御名が崇められない人間中心の世である。また、サタンの風が吹きまくる領域である。
しかし、私たちはこの祈りを祈る時、神の御心が完全に行われ私たちを命を懸けて愛された主の御名が崇められる時が来るように、また自分の名もあの強盗のように「思い出してください。」という思いをもって祈るべきである。

  • [39]
  • 祈りファイルⅣ 呼びかけ 主の祈り 第一の願い

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2012年12月31日(月)23時16分0秒
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「天にましますわれらの父よ。」―――第一戒に相当する。

私たちは礼拝などにおいての子呼びかけの言葉をどのような気持ちで唱えればよいのであろうか。

1 キリストが父に対して持っていたような親近感を持って呼びかけることが大切である。―「天にいます。」から学べる。

〇キリストは完全なる信頼感を持って神を父と呼んでおられたからである。なぜ私たちはできないか。私たちは父というものに対して低いイメージしかもっていないからである。
 ルターの小教理問答書の中で<「天にいます」という言葉の目的は何ですか。>という問いに対して「この父は愛でも力でも地上のあらゆる父より優れておられる。ということを私共に教えるためです。」

多くの人たちは、厳しく無情な父親しか知らない。彼らの肉の父は彼らの幸せについてほとんど何も配慮しない。利己的な人物であったかもしれない。幼少時代の人格を傷つけた怠惰な男、酔いどれ、麻薬中毒、あるいはほかの何かに歪められた人物であったかもしれないのである。
あるいはまた、彼らの父は自分の子供から尊敬されない意志の弱い人物であったかもしれない。家庭や家族に対する自分の義務を怠ったかもしれない。その結果、自分の子供たちから軽蔑とあざけりを受けたのである。もっともよい状態でも、その機嫌がよかったり、悪かったりする。ある日子供の扱いが寛容であったかと思うと、次の日には荒々しく恐ろしかったかもしれない。だとすればどうしてそのように一貫性がなく何が起こるかわからないような人物が信頼されることがあり得ようか。
多くの父親は幼少期における。自分の子供たちの性格形成の際の自分の役割の大切さについてほとんど知らない。子供たちが学校に行くようになる前に子供たちの性格、その人格の原型となるものは、両親によって家庭の中で形成されてしまっている。幼少期は私たちが考える以上にしばしば子供たちにとって苦痛の時である。この時期に子供たちの柔軟な知性の中に深い疑惑とみじめな不安が起こってくる。そして自分はほんとに両親にとって必要な存在なのかどうかを考え込んでしまうのである。また自分たちが本当に信頼できる人、自分たちを本当に理解してくれる人を求めている。
  それゆえに「父」という名前は暖かくなく幸いな思いででいっぱいであるというより、しばしば怖れと反感、怒りと敵意、時には憎しみとあざけりに結びついてるのである。

そして悲劇的なことは神に「私たちの父」というこの称号をつける時、私たちは知らず知らずのうちに、心の中で自分の父と結びついた卑しい属性を神に転移してしまうことである。
 もちろん故意にされるわけではないが、やはりそれはなされるのである。私たちにとっても神にとっても、その結果は破壊的である。
私たちは人間の父の投影を神の御性質に押し付けることによって神をひどく不公平に取り扱うのである。


2 キリストが兄姉に対して持っていたような愛で呼びかけるべきである。


3 キリストが父に対して持っていたような希望を持って呼びかけるべきである。なぜならキリストは自分が父なる神から完全に理解され受け入れられている。という確信をもち、安心して神を父と呼んでいたからである。言い換えれば「父は私の願いを決して拒まれるような方ではない。」という(絶対的な確信)ともいうべき希望をもって呼びかけておられたからである。とすれば私たちもそういう安心感というか希望をもって呼びかけるべきである。
ところが私たちは自分自身の不安に取りつかれている。私たちは時々自分のよくない行為のゆえに不安である。また自分の罪意のゆえに神から受け入れてもらえないにちがいない。そんな私の弱さを理解してくれるような父ではないと思っている。そして自分のような者の祈りは聞かれないと思い込み希望をもって呼びかけることができないでいることがある。
しかし私たちはそのような時2つのことに気づかなければならない。

①私たちはたとえどんな自分の足りなさがあっても「私はキリストの犠牲のゆえに完全に神に受け入れられ、理解しわかっていてもらえる。喜ばれているのである。」という安心を持つべきである。

②この世は因果応報の世界ではなく神の憐れみにかかっている世の中なのである。ということを悟ることです。言い換えれば神は決して私たちの行為に従って恵みや祝福を与えられるのではない。神は恵もうと思う者を恵み、憐れもうとおもう者を憐れまれるのである。まさに神の御心にかなっているものである。ということです。
だから安心して神を父と呼んでいいということです。

以上のこの2つの安心感をもって呼びかけることができるということのゆえに自分の祈りは聞かれる。という安心感をもって祈るべきである。

私たちが神に対して全き信頼をもって祈るようになるにはこのことがよくわかっていなければなりません。つまり私たちが自分の父に対するイメージを持っている、そのイメージを持って父なる神もそのような父であると思ってはならない。ということである。なぜならこの天上における私たちの父は地上における父と比べてはるかにまさっておられるからである。

〈御名を崇めさせたまえ〉

1 宣言 = 神の御名は人間がどうのこうのする前から、元々聖いものである。(前提)そのことを告白するのである。

2 祈り = もともと聖い神の御名を、「罪深い私たちの間でも汚すことなく聖く用いることが出来るように」と祈るのである。

3 約束 = 「聖い」とは完全な方である。と告白することでもあるから、神のすべてを受け入れると約束することになる。

4 懇願 =どのような願いにも勝って、神の御名が崇められることが最大に私の願いです。


〈御国が来ますように〉

1 前提 = この世は神の御国のようではありません。私はこの世を罪深く、はかなく悲しいものと思います。ですからこの世を望みません。この世に未練はありません。この世に決別します。

2 願い = 私は「神が支配される理想の世界」が一日も早く来ることを心から願います。

3 約束 = 私は神の御国を来させるために努力することを約束します。
     = 具体的には「伝道によって神の国が早く来る」のですから、私は伝道に励むことを約束します。

  • [38]
  • 今しかできん

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2012年12月31日(月)18時15分23秒
  • 返信
 
今やらないと今年の初めから泣くことになるような…口約束で終わってまう。てことでNEWPCでA列車で遊んでないで続きやろうっと…
まずはご飯ごはん!

  • [37]
  • ジョージ・ミューラー

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2012年11月21日(水)17時25分44秒
  • 返信
 
ジョージ・ミューラー

少年時代

①父を欺き、金をだまし取っていた。政府の公金にも手をだし、浪費家となり、放縦な罪を犯すようになっていた。14才の時に母が死の床にあった時でさえトランプで遊びと強い酒におぼれて町をよろめきながら彷徨っていた。形ばかりの堅信礼を受けたが、父から渡された堅信礼の感謝献金の9/10を自分の者としてしまった。又、入獄したこともある。

②こうした中で彼は父の勧めにより、神学生となる。安定した収入の生涯のためであった。


家庭集会

① ひざまづいて祈る姿を21才になるまで見たことなかった。―これがいつまでも忘れられない。深い印象を与えられた。

②御霊による祈りを初めて聞く。―魂を根底から覆し、押えることの出来ない新しい喜びが魂の内にわきあふれてきたのである。これが彼の新生であったかもしれない。―その夜今まで感じた事のない平和と安息が彼の魂を占領しているのを感じていた。そして、悔い改めの生活へと導かれた。その初めに世的な小説の翻訳の原稿を焼き捨て、キリストへの服従の証とし、最初の自己否定の経験をする。


1 わずか18名という教会に赴任して行った。何でもできるといってよいほどの妻に恵まれる。信仰的、教理的、質素な生活と自己否定ということにおいても一致していた。彼は「私たちの幸福は彼女によって毎年増し加えられた。」と言っている。そして彼らは生涯の基本的信仰の規規をつくった。もちろん聖書のみことばに立って

1決して借金はしない。(ロマ13:8)
2財産を蓄えるということは彼の信仰生活に矛盾することであった。(彼は貯えられた財産よりも神を信頼すべきことを確信していた。)
3自分のものでない金はいかなる理由があろうとも、それが1次的な流用であっても彼は許さなかった。


孤児院創設

30才の時、ミューラーはプロシアのハレ孤児院創設者フランケの伝記を読み、非常な衝撃を受け、数日間祈った後に「あなたの口を広く開けよ。私はそれをみたそう。詩81:10」この標語の御言葉に立って事業を進めていくのである。

初めは第一ホーム 26人の養育からはじまり
2年目第二ホーム30人になる。

このころ彼の新しい赴任してきた教会の会員が400名近くにもなる。1層の注意を払わねばならなくなったが、彼は祈りの時間だけはとるように心がけた。そしてあまり忙しすぎて神との交わりを持とうとしない「あまり忙しすぎる人々」に向かって4時間働くために1時間の祈りの準備をすることは2時間祈るなしに働くよりはるかに重要であると忠告している。

又、その時、大伝道者ホイットフィールドの伝記を読み成功の秘訣は①きわめて祈り深しあったこと。②ひざまづいて聖書を読む習慣のあったことであることを知り、ミューラーもひざまづいて聖書を読むようにした。そして彼はそのひざまづいて聖書読んでいる時に、「神はみなしでの父」という詩編86:5という聖句に深い感動となり、生涯の事業の礎となった。―ミューラーが養っているのではない。父が天において養っていて下さるのだ。天の父が養い主なら主は私に必要を下さらない訳はない。と彼は信じたのである。必要なのは父に約束を果たしていただくために祈るだけである。と彼は言ったのである。

やがて
第三ホーム  96人
第4ホーム  130人

狭くて騒がしいため今のところから新しい地へ移った。
1号館  250人
2号館  400人

5号館  2000人

65才の時、妻のメリーは召天する。そして娘のリデアの結婚の数日後に再婚。サンガ夫人と一緒になる。彼女は莫大な資産を持っていたが、ミューラーの信仰に従ってそのうち1000ドル 365000円だけを残し、あとは全て人に施してしまった。ミューラーの一生はただ神にのみ信頼して生きる生涯であった。そしてそのために祈りに生きる生活であった。

彼のところに献ぜられた献金は大口というより本当に小さな献金がほとんどであったが、主は常に満たし2500人を収容するようになっても30分と食事が遅れることはなかったという。
しかも常に2日以上の余裕のあるお金も手元にある時はなかったという。1日1日天の父は彼の子供たちである孤児たちの父として養っていることを彼の事業を通して証明したのである。


伝道の生涯
70才になって若いころから夢であった宣教師になることが出来た。彼は実に14回にわたり、80万キロ地球8回周り、300万人に語った。世界中の人々にである。しかも彼は説教の中で1度も孤児院のための献金の要請をしたことがない。

85才の時 娘のリデルは死ぬ
87才の時まで伝道旅行をして歩いた。

90才の時 サンガ夫人が召天し、さびしく一人暮らしをしなければならなくなった。しかし平然として主然として信仰によって耐えた。93才の時の死の1週間前まで聖日説教をしていた。彼の教会は12の分教会を生み、1200人になり60人以上の宣教師を遣わしていた。

  • [36]
  • 神の実現 (求めよ、さらば与えられん)バレンシア・シュリンク

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2012年11月17日(土)20時58分1秒
  • 返信
 
神の実現 (求めよ、さらば与えられん)バレンシア・シュリンク

1  1家族用の家に26人の姉妹たちと2・3人の家を消失した人たちが住んでいた(創立3週目)
2  ビジョンとして神は今必要としている母の家ではなく神の家を建てよ。という命令を与えられる。1945年(S,20年5月)
3  土地がまず与えられるようにと祈りがすべての人の心の中に燃えた。(心のを注ぎだし、グループに分かれて祈りを続けた。―何週間も)
4  1人の姉妹のお父さんから7000平方メートルの土地が与えられる。
5  土地に建築することを願いに行くが不適当と言われる。(何週間も祈り筒ケルが何度言っても断わられる。)
6  市長の車に乗せていただき、不可能が可能となった。
7  ところが建築計画書を提出したが、普通は1年かからないと実際に建てる許可が下りない。と言われ何度も断られる。
8  異例の早さで許可される。
9  財政計画 25万マルクの内24万9970マルクを夫の父から保証者となっていただく。つまりマルクしかない。と市に説明し驚かれる。
10 レンガがほとんどなかった。―偶然乗り合わせた紳士に話したら後に焼け落ちた兵舎を取り払って良いという市役所の会議の決議があり、それをまりや姉妹段にあげようということになった。という。TELあった良質のレンガを手に入れることが出来た。
11 土地の中に祈りのテントを張る。15分おきに姉妹たちと交代する。
12 朝鮮動乱(戦争)の結果、建築材料が1部軍事目的に差し押さえられた。それゆえセメントなどすべてが困窮した。
13 ブロック、鉄の丸棒、鉄の桁、ガス管、寄贈される。セメントも分けていただく
14 地下室の天井を注文するのに6週間で6000マルク支払うことになるが、1日5-10マルクの献金しか入ってこないのに・・・御名にしがみ付いて祈る。祈りは科の情たちの唯一の逃れ場であった。
15 1000マルクの封筒が届く。―前払金として渡すことが出来た。
16 トコッコ外れる。100kもあるのが何度やっても外れる。―祈りのテントの中で祝福を取り去った原因を示してくださるように祈ると2-3人の姉妹が1人の姉妹にに仕事の片付けや注意不足や怠慢、などの理由が怒りを発していたことが明らかとなり、赦し合う祈りを献げる。―すると2度とレールから外れなかった。
17 モルタル混合機が止まる(1日半も)1人の労働者への愛の態度をとらず、一生に誰も働こうとしなかったことを明らかになる。主にゆるしを願う祈りを献げると、そとから何もしないのに、再び動き始めた。(これらの事から人を許せない心から出た祈りは聞きたまわないということを体験させていただく。)
18 1950年の秋、雨が降り続いて、仕事にならない。みなで祈りのテントに入って祈っていると、突然1人の姉妹が、神に反抗していた自分の罪を告白し、「雨が降るのは自分の罪だ。」と言った。するとまた1人がそして又1人が、ひれ伏して自分の罪だと言った。そして最後の一人がひれ伏した時に雨がピタッと止んだ。こういうことが何度もあった。(身を低くする者の祈りがきかれることを知る。)

19 再び石材ブロックが不足しはじめた。心配を祈りに変えて全員で祈った。するとある日1人の婦人が来訪して「マリヤ姉妹段は多分間もなく、ブロックを必要とする」と言うことが彼女にわかった。というのである。そして本当にそうなのでしょうか。と彼女は尋ねた。・・・そしてもしそうなら友人の主人がその会社をしてるのでお願いしてあげようというのである。神は全く知らない一人の器を選びださせれた。そしてブロックの1部を寄贈したい。という知らせが届いた。ところが何日待っても来ない。来信者の建築指導者たちが、「それみたことか、そんな神がかりなやり方では続くはずがない。明日は中止だ。しかし、給料は洗ってもらうからね。」と嘲笑される。その時ブロックを満載したトラックの列がやって来たのです。これをみた先ほどの嘲笑した1人は教会から離れていた人でしたが、この驚くべき神の御業にさっと眼がしらを拭うのでした。そして「そうだ。人はここで信仰を学ぶことが出来る。」と彼は言ったのです。

20 車の運転手が運送費として136マルクを取りに来たので家に向かわせた。ところが金庫にはたった8マルクしかなかったのである。オイラリア姉妹は奇跡を為し給う神を信じて運転手を差し向けたのである。現場では絶え間なく、規制気を祈り続けていた。その時郵便が届き、ちょうど必要な金額が送り届けられた、清算を終えると1マルクにも満たない残金であったという。神の助けはかんぜんである。すべての不足の中にもかけることはなかった。

21 出版部や技工室で出来たものが売り出される年であった。一般の世の中のように、奉仕に対する一定の報酬を契約し、価格を決めるべきだろうか。姉妹たちの生活を考えると不安であった。しかし、、彼女たちはこのようにしたのである。」「我々が自分の安全と要求を放棄し、天の父への依存的な関係に入るならば、彼が我々のために看取り、その軌跡を顕わしたもう科の末井が与えられる。つまり、それは保障や定収入を放棄することであり、信仰と祈りの道によって「与えよ。そうすれば与えられるであろう。ひとはおし入れ、ゆすり入れてくれるであろう。(ルカ6:38)とのみことばによって全てを○から受けることを決断したのである。―そして彼女たちは「自分の命を見い出すものはそれを失い。私のために、自分の命を失なう者はそれを見出すであろう(マタイ10:39)の御言葉を神からいただいたのであった。
 収益や予備費のような地上の保証を確保しようとする思いを我々は全て捨てなければならない。神はそういわれたのである。そこで我々は健康保険、傷害保険、養老保険など一切入らなかった。また我々の奉仕は一切報酬とは無関係に行ない。我々の出版物や技工芸の品も代○を請求することなく○○すべきであることを申し合わせたのである。この道を歩み20年にある。我々が勘定をし、じぶんとその家族のために地上の安全を求めようとするならば、○はそれを粉砕する事が出来るし、むしろ、我々が信じて全てを神から期待し、その御国のために、自分を使い果たすようにと導きたおもうのであるが、神は、我々の上にその○○を豊かに注がれるということを。

  • [35]
  • ディビット・ブレイナード

  • 投稿者:ちよ
  • 投稿日:2012年11月16日(金)20時21分58秒
  • 返信
 
ディビット・ブレイナード
1918年4月20日
米・コネチカット州ハートフォードのハダムで生まれた。父は9歳の時、母は14歳の時に世を去った。9人兄弟姉妹の3男として生まれた。
 幼いころから真面目で、どちらかと言えばふさぎ込む性質であった。
罪の自覚はなかったが、7.8歳の頃から自分の魂に関心を持ち始め、死を考えて恐れを覚えるようになった。このことは彼の遊びに熱中する思いを失わせた。この宗教的関心はわずかのの期間続いた。時折、ひそかに祈りをした。こうして13歳を迎えた。
その頃 かれは仕事に熱中し、読書に大きな喜びを見出していたがハダム一帯に伝染病が大流行し、身の安全を考えたりする出来事があったりして、時折
改心を望んだり、あるいは天国や幸福を望んだりしたが、回心とはなんであるか知らなかった。
 彼は世の事には少しも関心を持たず、魂の事で頭がいっぱいになっていた。 キリスト者によるもう一歩というところまで来ていたといえよう。
 14歳の時、母の死に接して耐えられない苦しみと孤独感に襲われた。そしてそれ以来、宗教的関心は次第につめたくなりはじめ、以前のように時折、密かな祈りはしていたが魂の事については無関心になってしまっていた。「この世にあって神のない者」として歩んでいた。
 19歳 そのような中で彼は伝道に一生捧げようと思うようになっていた。(日本ではふつう考えられないこと。クリスチャンホームのような育ち方をしている。神のない者として歩んでいながら伝道者になろうとするなんて)
 20歳の頃、フィクスという人の家に引き取られる。そして、間位置に密かな祈りや隠れた宗教的な義務を怠らず、語られるみことばに細心の注意を払い、形だけの宗教的日々を暮していた。

Ⅰ 義とされることの追求 (自己の義と罪の自覚)

(1)  良い性格の故の自己義認と罪の自覚
a  私はあまり若い人々の仲間に加わらなかった。どこかに遊びに行ってくると必ず初めのような良心をもって帰ることが出来なかった。
  自分の義を損なうことをおそれた。そのような時には決まって新しい罪悪感が増し加わって恵みの座に近づく恐れを感じ、また、時折自分を喜ばせていた良
  い性格が傷つけられるように思った。ああ、しかし私の良い性格とよぶものはその全てが自己の義であり、神の栄光を求める願いに基づくものではなかった
  のだ。

b このようにして、私は自らの義を基礎として進んでいったのである。ある日の朝、突然神は私が滅亡の危険と神の御怒りを自覚することを良しとされた私
  はおどろきのあまり、そこに立ちすくんだ。過去の良い性格など、全く消え失せてしまった。罪と邪悪の現実を見せつけられた。ので、わたしは1日中非常な煩闘のうちにすごし、まもなく神の御怒りが頭上にくだるのではないかとさえ思った。

c 私は落胆し、出来るだけ、一人になれるように努めた。時には、鳥や獣の幸福さえねたみを覚えた。動物たちは私のように永遠の悲惨にさらされてはいないと思われたからである。このようにして、私は何度となく煩闘の中にあって日を過ごした。恵みの希望を妨げる山々が目の前にそそり立ち私にとって回心のわざは高嶺の花の様に思われて夫と
  としてその恵みにあづかれないであろうと考えた。しかし一方では神に呼ばわり祈りを続けていた。

(2) 祈りのゆえの自己義認と罪の自覚

a 私は自らの義に価値があるなどという考えは全く捨て、私の為す最善のものでも永遠の刑罰のほか何の救いも与えられないとしばしば神の前に言い表していた。しかし、依然として、自らの宗教的義務によって自分を神に推薦しようとする思いを潜在意識の中に抱いていた。祈って心がある程度までとかされるように思われた時、神が憐れみの御心
 を動かしてくださるだろうと願っていたのである。 この時私は自らの祈りの中に何か喜なるものがあるように感じた。私の心の中では郵政を占めている思想と希望の土台が幻想的な善にあったとはいえ、罪を嘆いて、ある程度までキリストの内にある神の憐れみに身をゆだねることが出来たからである。・・・宗教的義務を広げることによって時折、自分
 は天国に至る良い段階を○したことが出来たらと思い込んだ。神が自分と同じように動かされ、このような熱心な叫びを聞いて下さるように考え自らのわざによって自らを慰めていったのである。

b 同じく20歳の頃、一日断食と祈祷に費して、罪の邪悪を見る目が開かれ、イエスキリストによっていのちの道がしめされるよう神に向かって叫んだ。神はその日私の心の深層をかなりよく示してくださった。しかし、私は自らのわざになんの善とならないことを知りつつ、なおそれにより頼んでいたのである。―神は私が無力であることを示すための手段
 として、この努力をお用いになったのである。
 ・・・今でもよく覚えているがある夜、一人で外を歩いている時、恐ろしい罪が目の前にありありと示された。私は足元の台地が真っ二つに裂けて自分の墓となり家に着く前に地獄に落ちてしまうのではないかと思ったほどである。このような恐れを人に見られたくないために、無理やり寝床についたが、朝までに地獄に落ちていなかったら不思議だというように思っていたので少しも寝れなかった。

(3) 神の義認の道への反抗と混乱(悟れない苦しみ)

a こうして味わった多くの失望は私が全能者と論争し、人間を取り扱われる全能者の方法に欠陥があることを見出そうとするもっとも恐ろしい所まで導いた。アダムの罪をその子孫に及ぼすなどということは大変な誤りであると思い、私の邪悪な心はしばしばイエスキリストによる以外の道を望んだ。
 こうして私の思想は混乱し、他の方法によって神の怒りを逃れようと考え、無神論的な思想による変な考えを持ち、私に対する神の計画をむなしくし、神の御もとから逃れて隠れることとを画策するようになった。
 そして、こうした意図が私の解放のために何の益にもならないことがわかると、神が存在されていることを恐み、あるいは神を支配するほかの存在があることを望むような状態にまで落ちて行った。これはしばしば気が付かないうちに起こる心中の傾向であった。自分の心が神に対する敵意にあふれていると考えることは苦痛であった。また神の怒りが不意に頭上に落ちかかりはしないかと慄くのであった。

b
① 神の与えて下さった律法の厳正なこと。最大の苦痛によっても、律法の要求に応じることは不可能であることを思い出した。私はたびたび決心を新しくしたが幾度となくそれを破ってしまった。

② ただ信仰のみが救いを受ける条件である事、神はそれ以外の条件に応じられることはなく、私の心からの切実な祈りや努力に対して命と救いを約束なされることはない。ということであった。「信じないものは罪に定められます。」(マルコ16:16)という見言葉は一切の希望を完全に砕いてしまったのである。私はずいぶん真面目に義務を遂行し、長い間きわめて宗教的な生活を送り、神の恵みを受けた人々よりも多くの事をしていた。そのわざが全く価値のない者のようにみなされることは耐えがたい事であった。

③ 信仰とは何か。信じるということはどんなことかキリストの御許に行くとはどのようなことかを知ることができないこと。疲れた人、重荷を負っている人に対するキリストの招きの言葉を読んだがその人たちが℃の様にしてキリストの御もとにいくのか。その方法を知ることが出来ない。それがわかりさえするならそのためにどんな難しい行為が必要であっても、喜んで御もとに行くんだがと考えるのであった。

④ 神の絶対権といこと。このことにも非常に反発を感じた。私を救うのも罰するのも全く神の御心のままになされるということは、「耐え難いことであった。」ローマ人への手紙9:11-23 特に21節は絶えず私を苦しめた。この聖句を読んだり、黙想したりするたびに私の外面的な善はいつも崩されていったのである。


(4)自己救済(義認)の道を断念、放棄

a これらの間じゅう神の御霊は力強くし、私に働きかけておられた。私は私の心の中ですべての自信、何とかして自分を助けようとする全ての希望を放棄するように迫られた。自分は失われた状態にあるということが、時には非常にハッキリと自覚されて、まるで。「自分を解き放つことは永遠に不可能だ。」と宣言されてたかのように感じた。しかし、私は、自分が罪と咎との中に死んでいるという重要な心理をあえて知ろうともしなかったのである。

b ところがある朝、いつものように、さびしい所を歩いていた。その時、突然私は自分の解放と救いを成し遂げようとする、あるいは獲得しようとする一切の意図や工夫が全くむなしいものであることを知らされた。自分は全く失われている。と悟るところまで達したのである。いまや、私は永遠に至るまでになし得るすべての弁解をしつくしてしまったこと、自分を頼むすべての弁解がむなしいものであることを知った。

c 心の嵐は静まり、かつての苦痛は和らげられた。それまでは、多くのわざを積めば積むほど、神は私に仮があると考えていた。あるいは少なくとも、神はいっそう私を捨てるに忍びないと思われるであろうと考えていた。最もそれと同時に自分の業には何の功績もない事を(口で)告白はしていたのだが、ところで今度は祈れば祈るほど、また何かをすればするほど、かえって憐れみを求める。という点で神に仮があることを知ったのである。私の祈りは神が恵を下さるための条件を少しも果たさない。事をしったのである。
それまで私は、神の御前での各種の務め、断食、祈りを積み重ねてきた。しかし、神のためには何もしなかったのであるから、神に何かを請求する資格はないこと、むしろ、偽善と神を侮ったことのゆえにほろびるべきものであることを知った。ああ、私の為すわざは、今までの様相とはなんと異なったものにみえてみたことか。

Ⅱ 回心

a 21歳の夏、彼は神の啓示を受け、神の豊かな臨在感の内に神の栄光を見せられる。この体験は素晴らしい天的で神的、想像以上に卓越した比べうるもののないほど、かけ離れたものであった。と言う様な事をいっている。彼の魂は言い尽くせない喜びに包まれ、その方が永遠に遠くにわたってわたしの神となられることを考えると満足した。内なる喜びと編案は夕暮れまで続いた。

b 神の優れていることmあいすべきこと、偉大なること、その他の完全性によって、彼の魂は全く補えられ、大いなる喜びに満たされた。そのあまり神の中に没入してしまうのではないかとさえ思われるほどであった。
彼は心から神を崇め、神を喜ぶことが出来た。彼は新しい世界にいることを感じた。周りの全てのものが今までとは違って見えた。彼の新生であった。

c その時、救いの道が目の前に示された。なぜ今まで自己流の考え方を振り捨ててこの祝福に満ちた幸いな救われた道に従わなかったのかと不思議でならなかった。・・・なぜ全世界のものがただキリストの義による救いの道を見出し、それに応じることをしないのか不思議に思うくらい明確に示されたのである。その時、味わった素晴らしい感覚は、数日続いた。彼は伏し、また起きてはただただ甘美な思いの内に神を喜ぶのであった。

d  それ以来彼は色々なことがあったが、次のような言葉を語るほどに霊的に生長していった。

① 霊的状態の暗黒よりも、神の臨在から締め出されることのほうが、私にいっそう苦痛であった。

② しかし、病気になる1日か2日前の夜、非常に静かなるところを一人歩きながら神を思い、祈りにふけっていると、上から甘美な新鮮な御霊の注ぎを受け、魂は死の恐怖をはるかに超えたところまで引き上げられた。実際、死を恐れるというより、死を渇望した。そのひと時、世の与えることの出来る一切の快楽や喜びに勝るさわやかさを与えられたのである。

③ 激しい勉学のために霊的なことをに携わる時間はわずかしかなく、そのため魂はしばしば神と共に一人いる時間の少ない事を嘆き悲しんだ。

④ ああ、神とともにある1時間は、この卑しい世の中の全ての楽しみにどんなに勝っていることだろう。


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